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スフレを穴だけ残して食べる方法

「表出性と創造性:表出説を改良する」日本語要旨+あとがき

『新進研究者 Research Notes』(第5号)に「表出性と創造性:表出説を改良する」が掲載されました。

この論文について、要旨、問題意識、あとがきを記してみます。

要旨と問題意識

本文中の要旨が英語表記のため、日本語版をこちらに掲載します。

分析美学では、表出性の表出説はよく知られているが、不人気である。というのも、幾度となく指摘されてきたように、表出説には致命的な反例がありふれているのだ。本稿は表出説を直接擁護する代わりに、R. G. Collingwoodの理論に基づいて表出説を弱め、改良する。通説に反して、Collingwood自身は表出性の表出説を提唱したわけではないが、彼の表出的プロセスの理論はこの文脈においてなおも有用である。改良された表出説は表出性の原因を十分に説明しないものの、表出性を創造的に生み出すための合理的な方法に光を照らす。

日本語にしたところで、分析美学の背景知識を前提した書き方をしているので、ピンとこない方が多いかと思います。

おおまかに言えば、この論文の問題意識は以下のようなものです。

マンガによく見られる、閃きの感覚を表現するための技法として、閃き豆電球(💡)が存在します。

この表現技法はおなじみのものであり、私たちはこれを用いて自分の閃きを伝えたり、自分の閃きを伝えることなく、作中のキャラクターの閃きを伝えたりすることができるでしょう。

これは慣習的な表現技法の単なる適用による感情表現の事例であり、創造的なものではないことはあきらかです。

他方で、エルヴァルド・ムンクテイラー・スウィフトなどの芸術家たちは、創造的な感情表現を達成している点で称賛されています。

たとえば、以下の一節が示すように、スウィフトの楽曲「レッド」は恋愛感情の斬新な表現です(また、表現される感情も非常に独特できめ細かいものです)。

彼を愛することは新車のマセラティで行き止まりの道路を突っ走るようなもの(Loving him is like driving a new Maserati down a dead-end street)

さて、創造的な感情表現はいかにして達成されるのでしょうか。

この問題は慣習的な表現技法とも無関係ではありません。

閃き豆電球は使い古された表現技法ですが、その考案者にとってはそうではありませんでした(一説では、初出はアニメ「フェリックス」とされています)。

閃き豆電球の考案者は創造性を発揮し、一つの偉大なる伝統を切り拓いたわけですが、それはいかにして行われたのでしょうか。

〈創造的な感情表現はいかにして達成されるのか〉という問いに取り組むうえで、私は表出性の表出説という「よく知られているが、不人気」な説に注目するわけです。

この問い(と私の応答方針)に関心のある方はぜひ本論を読んでみてください。

表出性の表出説、再訪

本論の一つのポイントは表出性の表出説(以下、表出説)を丁寧に検討していることにあります。

感情表現をめぐる分析美学の議論では、表出説は(喚起説と並んで)素朴な見解として頻繁に登場し、いくつかの難点を簡単に指摘され、ただちに退場させられてしまう雑魚キャラ的存在です。

この雑魚キャラはトルストイ、デューイ、コリングウッドなどといった高名な思想家が支持していたと見なされることがあります。

実際のところ、先行研究でも指摘されるように、私の研究対象であるコリングウッドは表出説の支持者ではありません。

また、私はトルストイやデューイなど、表出説の支持者とされる他の思想家には詳しくないため、表出説の実際の支持者が存在するのか、正直よくわかりません。

なんせ、表出説は雑魚キャラなのですから、高名な思想家に結びつけることには慎重でなければならないように思われるのです。

とはいえ、表出説が高名な思想家に結びつけられる現状を前提すると、表出説は高名な思想家が支持したくなるような、何らかの魅力をもっている可能性があるとも考えられます。

そこで、本論では、表出説の魅力を最大限引き出すべく、その改良を行いました。

(高名な思想家が実際に表出説を支持していたとすれば、好意的に読めば、それは私が定式化した改良版と似たものだろうと推測します。)

とりわけ、私は表出説に対して局所的な擁護論証を提示していますが、これは表出説が見かけほど素朴ではないことを示しており、一つの見どころになっていると思います。

表出性から自己表現へ

最後に、個人的な話ですが、本論は図らずも私の関心の変遷を象徴しています。

修士論文において、私は画像における表出性の獲得メカニズムを研究しました。

その際、私は本論でも言及したグリーンの著作を大いに参照しました。

他方で、私はロビンソンの著作にも触れており、そこで論じられていたコリングウッド美学に感銘を受け、関心が自己表現(真正の表出)に移行した経緯があります。

本論は、表出性に関する分析美学の標準的な議論から、コリングウッドの議論へと移行するような構成となっており、意識していたわけではないのですが、私の関心の変遷と対応しています。

なお、本論の執筆後、私は「作者の意図」という悪名高い概念に取り組む発表を行っていますが、本論と同様、コリングウッドの精神を継承したものとなっています(近く、本ブログであとがきを書く予定です)。

幸福の手段にすぎない:美的価値の規範的源泉について

ワークショップ「作者の意図、再訪」が無事閉幕しました。

上記リンク先の記事の一番下に、僕の発表「創造的行為における意図とその明確化」の発表資料を置いているので、気になる方は確認してみてください。

ようやく多少余裕ができたので、先日応用哲学会で行われた銭清弘さんの発表「美的に良いものはなにゆえ良いのか:モンロー・ビアズリー再読」に触発されて考えたことを書いてみます。

美的価値の規範的源泉の問い:三つの立場

私の目的は、美的価値の規範的源泉の問い幸福論の接点を明らかにすることで、この問いの意義を明らかにすることである。

まず、美的価値の規範的源泉をめぐる議論について、私なりの素描を与えてみよう。

エーデルワイスは可憐だ。このとき、私はエーデルワイスを眺める理由をもつ。

可憐さは美的価値であり、美的価値は眺める、飾る、愛でる等々の理由を与える。

では、なぜ美的価値は理由を与えるか、これが美的価値の規範的源泉の問いである。

価値をもつこととは理由を与えることにほかならないとする影響力のある分析を前提にすれば、これは〈美的価値を価値にするものは何か〉とも言い換えることができる。

美的価値の規範的源泉をめぐる議論は、従来の快楽主義に新参の反快楽主義が挑戦するかたちで進められている。

しかし、その対立点を理解することは予想されるほど容易ではない。

両陣営が認める共通の観察は以下のものだ。

  • 共通の観察
    美的価値に関わるとき、一般に、私たちは快楽を得ることができる。

この観察に基づいて、快楽主義者は主張する。

  • 美的価値を価値にするものは快楽を与える能力である。

この主張に挑戦するための一つの方法は、共通の観察の記述に現れる「一般に」という修飾に注目し、例外を示すことである。

その美的価値に関わるとき、快楽を得ているとは言えないような事例はないか。

実際には、例外と言うにはあまりにも多くの事例を容易に挙げることができるはずだ。

たとえば、『ゲルニカ』は鑑賞者を揺さぶり、高い美的価値をもつように思われるが、この作品を鑑賞する際の経験は快いとは言いがたいかもしれない。

快楽主義者の典型的な反応は、『ゲルニカ』が美的価値をもつことを認め、自分たちが扱っている「快楽」とは、チーズケーキやマッサージによって得られる種のものだけでなく、価値ある経験一般のことだと弁明することだ。

なるほど、『ゲルニカ』を見る経験は「快い」とは言えないかもしれないが、価値ある経験には違いない。

快楽主義に挑戦するために、美的価値をもつが、価値ある経験を与えない事例の捜査を続けることもできるだろう。

しかし、じつのところ、今日の反快楽主義の勃興は基本的にこの路線から生まれたわけではない。

共通の観察の記述を論争的なかたちに改変してみよう。

  • 論争的テーゼ
    美的価値に関わるとき、つねに、私たちは快楽を得ることができる。

興味深いことに、反快楽主義者はこのテーゼを受け入れる用意がある!

なぜなのかと不思議に思われるかもしれない。

ポイントは、二種類の関係の区別である。

快楽主義とは、美的価値と、快楽を与える能力に構成関係を認める立場だ。

  • AはBによって構成される=
    AはBにほかならないか、AはBに基礎づけられる。

つまり、快楽主義者によれば、美的価値は快楽を与える能力にほかならないか、快楽を与える能力に基礎づけられる。

ここで注意すべきは、快楽主義が共通の観察はもちろん、論争的テーゼからも、一種の飛躍を行うことなしには生まれない理論だという点である。

  • 論争的テーゼ
    美的価値に関わるとき、つねに、私たちは快楽を得ることができる。

このテーゼは美的価値と、快楽を与える能力に構成関係があると示したり、帰結したりするものではない。

構成関係の代案は、よりはるかに知られた関係の一種、因果関係である。

論争的テーゼの因果的解釈によれば、美的価値はつねに快楽を引き起こす。

美的価値がつねに快楽を引き起こすとき、美的価値が快楽を与える能力にほかならないとか、快楽を与える能力に基礎づけられると考える必要はない

規範的源泉の問いは、美的価値を価値にするもの、すなわち、その価値としての本質を問うものであった。

ここで、反快楽主義者は、美的価値が快楽をもたらすとしても、美的価値を価値にするものは快楽ではなく、快楽は美的価値の副産物でしかないと主張する余地が生まれる。

たとえば、美的価値は、私たちを日常生活の実践的関心から解放し、自由にしてくれるとは考えられないか。

認識的価値や道徳的価値など、他の価値はそのような能力をもたないとするとどうか。

美的価値を真に価値にするものは解放的自由を与える能力であり、快楽は副産物でしかないと言いたくなるだろう。

もちろん、解放的自由に関する以上の見解の是非は検討を要し、解放的自由への訴えは反快楽主義者にとって一つの選択肢でしかない。

私たちは何ゆえ美的価値を追求するのか。

ポール・ゴーギャンがそうしたように、何かを達成するためか、互いの個性を尊重し、育むためか、それとも創造性を発揮するためか、さまざまな選択肢が考えられる。

私たちは快楽を与えない美的価値の事例の捜査から、私たちが美的価値を追求する真の理由の捜査へと移行することができる。

ただし、反快楽主義者はこのような路線をとらないこともできる。

  • 原初主義
    美的価値の規範的源泉の問いを拒否する。

真理は価値だが、このことは他の何かに訴えて説明する必要のない原初的事実だと思う人がいるかもしれない。

美的価値の原初主義もまた、美が価値であることはそのような原初的事実であるとし、美的価値の規範的源泉の問いを拒否する。

原初主義者の目には、快楽主義者も、私たちが美的価値を追求する真の理由を捜査する反快楽主義者も、還元的アプローチを採用している点で同じ穴の狢なのである。

そんなわけで、美的価値の規範的源泉の問いに関して、快楽主義還元的反快楽主義原初主義の三つの立場があると整理することができる。

説明の打ち止め

銭さんの発表に戻ろう。

銭さんの目的は近年の美的価値論に照らしてモンロー・ビアズリーの議論を読み直し、そこから洞察を引き出すことである。

そんななか、私の関心は、いわば前座のかたちでなされた、還元的反快楽主義をめぐる小さな議論にある。

「達成や能動的な美的経験や美的自由や自律性の発揮が、望ましい事態なのはなぜ?」と問われると、つまるところどれも広義の快楽を与えるからだ、と言いたくなるような気もする。

銭さんはここで、還元的反快楽主義者が挙げる快楽に代わるアイテム(達成、能動的な美的経験、美的自由、自律性)を再び快楽へと還元しようとしている。

銭さんの挑戦に対して、還元的反快楽主義者はどのように応答できるだろうか。

一つの方法は、快楽に代わる各々のアイテムについて原初主義を唱えることである。

達成/能動的な美的経験/美的自由/自律性が価値であることは原初的事実であって、他の何かに訴えて説明する必要はない、と。

この応答の問題は、なぜそこで説明が打ち止めされるかが定かではないことにある。

たとえば、達成は一般に充実感をともなうが、充実感は「広義の快楽」ではないか。

私には銭さんの問題意識がよくわかる。

しかし、私は快楽主義にも疑問がないではない。

告白しよう。

直観的に、私は(一つの例外を除いて)価値の原初主義一般を受け入れることが困難である。

そして、その例外は快楽ではない。

〈なぜそれは望ましいのか〉という問いを、私は快楽にも投げかけたくなる。

快楽を価値にするものは何か、なぜ快楽を追求すべきか。

この問いに対して、銭さんはどのように答えるだろうか。

快楽の原初主義を唱えるだろうか。

その場合、私はなぜそこで説明が打ち止めされるかが気がかりだ。

もちろん、銭さんが実際に快楽の原初主義を支持するかは定かではない。

ともあれ、美的価値の規範的源泉の問いに対する応答はどれも、なぜそこで説明が打ち止めされるかという疑問を潜在的に突きつけられるのである。

幸福の形式的定義

説明の打ち止めへの懐疑に対処するための手がかりは幸福論にあると私は考える。

幸福とは何か。

この問いをめぐって、三つの立場がよく知られている。

  • 快楽説
    快楽である。
  • 欲求充足説
    欲求の充足である。
  • 客観的リスト説
    一連の客観的に価値あるアイテム(候補:健康、友情、名誉など)である。

三つの立場のどれかが正しければ、それを参考に幸福の実現を図ることができる点で、これらは幸福の実質的定義である。

とはいえ、論争は長引き、どの立場が正しいか、結論は出ていないようだ。

ここで、アリストテレスに由来する幸福の形式的定義が参考になる。

  • 形式的定義
    幸福とは、〈なぜそれは望ましいのか〉という問いへの説明が打ち止めされる、究極的価値のことである。

任意の価値について、〈なぜそれは望ましいのか〉と問い続けていくと、いずれもはや説明を与えることのできない究極的価値にたどり着くだろう。

その価値の本性が何であれ、それを幸福と呼ぼう、というのが幸福の形式的定義だ。

この定義は、幸福の実現を図るための参考になるものではないが、人生の究極の目的は幸福であるという一般的理解を適切に反映している。

原初主義が適用される唯一の価値とは、この形式的定義の観点から理解された幸福だと私は考えている。

なぜ真理は望ましいかと聞かれたら、幸福につながるからだと私は答える。

「真理」は諸価値に、たとえば、本稿の主題である美に代えてもよい。

結果として、「美は幸福の約束にすぎない」というスタンダールのテーゼをひねって、私たちは「美は幸福の手段にすぎない」と言うことができる(なお、次節の議論が示すように、「手段」という語は代替可能性を含意しない)。

そして、これは、幸福以外に原初的価値を認めず、幸福を究極的価値と定義した場合の当然の帰結である。

諸価値は幸福の手段にすぎない。

美と幸福の結びつき方

美的価値の規範的源泉の問いに戻ろう。

私たちは説明の打ち止めへの懐疑にいかに対処すべきか。

銭さんは、還元的反快楽主義者が挙げるアイテムを再び快楽へと還元しようとしているわけだが、なぜ快楽に至った時点で説明を打ち止めしなければならないのか。

一つの可能な応答は、幸福の快楽説に訴えることだ。

快楽は幸福(=究極的価値)にほかならないため、説明の打ち止めは正当である、と。

同様に、原初主義者は、客観的リスト説に訴えることで、美は幸福を構成する客観的に価値あるアイテムの一つだと主張し、説明の打ち止めを正当化できる。

実際、美は客観的リストの常連候補なのである。

興味深いことに、説明の打ち止めへの懐疑に対処しようとすると、幸福論へと踏み込むことになるようだ。

美的価値の規範的源泉を問うことは、美と幸福の結びつき方を問うことに等しい。

この点はきわめて重要である。

じつのところ、私たちは美的価値の規範的源泉の問いについて、一般的にして不可謬な見解をすでに手にしている。

美的価値を価値にするものは何か、それは幸福に寄与する能力である。

この幸福説は、幸福以外に原初的価値を認めず、幸福を究極的価値と定義した場合、諸価値に正しく適用される。

真理を価値にするものは何か、それは幸福に寄与する能力である、というように。

どうやら、美的価値の規範的源泉の問いに答えることは容易らしい。

私たちは、一般的であり、正しくもある美的価値の幸福説を手に入れた。

しかし、残念なことに、幸福説は情報量に乏しい。

ここで、私たちは改めて問わねばならない。

美的価値の規範的源泉の問いの意義とは何か。

私たちはこの問いに答えて何がうれしいのか。

私なりの答えは、すでに示したように、ごく単純なものである。

たしかに、美的価値は、それが価値であるかぎり、幸福と結びついている。

しかし、美的価値と幸福の具体的な結びつき方は定かではないため、これを浮き彫りにする必要がある。

結局、規範的源泉の問いは、美的価値が幸福に寄与する方法について、より良い理解を得るための立脚点となるかぎりで、意義をもつのだ。

そして、理論において、一般性と具体性はトレードオフの関係にある。

還元的反快楽主義者の諸説を快楽主義に回収しようとする銭さんの構想は、成功すればエキサイティングなものになるに違いない。

美的価値の快楽説が幸福の快楽説と手を携え、勝利を果たすことは十分にありうる。

しかし、そこで生まれる快楽主義的説明は高度に抽象的な理論になるだろう。

私の場合、ニック・リグルの理論に対する伊藤迅亮さんの一連のツイートによる弁明にうなずき、一般性を欠いていても、美が幸福に寄与する独特の方法を具体的に描写する理論の方に関心が向く傾向にある。

これは私の趣味であり、それ以上ではない。

一般志向の理論と具体志向の理論、双方がともに発展していくことを望む。

 

ワークショップ「作者の意図、再訪」開催概要(+おまけ)

哲学オンラインセミナーにてワークショップ「作者の意図、再訪」を開催します。

開催概要は上記リンクから確認できますが、一応ここにも掲載しておきます。

ワークショップ「作者の意図、再訪」

 

日時:6月4日(土)14:00–17:00

 

概要

作者の意図は芸術解釈に関与的か。「意図の誤謬」(ウィムザット&ビアズリー)以来、この問いをめぐって分析美学ではおびただしい量のインクが費やされてきた。とはいえ、美学が扱うトピックが飛躍的に増えるなかで、その盛り上がりは往年のそれと比べて落ち着いてきているのもたしかである。本ワークショップの狙いは、新しい視点とツールを携えてこの古典的問いを再訪し、それを改めて活気づけることである。

 

原虎太郎「J. レヴィンソンの仮説的意図主義を評価する」

分析美学では、作者の意図は芸術作品の正しい解釈の決定に関与的なのかという問題をめぐって、活発な論争が交わされてきた。最も有力視される理論の一つである仮説的意図主義は、この問題に対して、大まかにいって〈作者の意図に関する最良の仮説が作品の意味を決定する〉と答える立場である。本報告では、仮説的意図主義の主要な支持者であるJ. レヴィンソンの主張を検討する。その際特に、レヴィンソンが「実際の作者の仮説的意図主義」と呼ばれるバージョンを支持していることに注目し、これが自身のモチベーションを十分に反映していないのではないかと論じる。

 

銭清弘「制度は意図に取って代われるのか」

作者の意図が作品の意味や内容を決定するという見解は、分析美学において根強く支持されてきた。本発表では、キャサリン・エイベル『フィクション:哲学的分析』によって提示された代替案を検討する。エイベルによれば、フィクションとは作者と鑑賞者で想像を共有するゲームであり、その根幹をなす「想像の伝達」という課題を解決するのは、作者の内的な意図ではなく、作者と鑑賞者の共有するフィクションの制度、そこに含まれる内容決定ルールである。エイベルの制度的アプローチには妥当でない前提および帰結が伴うことを指摘し、鑑賞者同士の協調に依拠した別の制度的アプローチを提案する。

 

村山正碩「創造的行為における意図とその明確化」

意図論争において、そもそも意図とは何かという問いが主題化されることは少ないが、芸術制作(ひいては創造的行為一般)における行為者の意図のあり方はそれ自体興味深く、さまざまな分野の関心の対象となってきた。しばしば指摘されるのは、芸術制作では、芸術家は事前に明確な意図をもたず、制作の過程で自身の意図を明確化していくこと、そして、作品の完成時(ロバート・ピピンの表現では)「意図が一種の焦点を結ぶ」ことである。本発表では、芸術哲学と行為論の接続を通して、この種の現象を関連する諸現象から区別し、輪郭づけ、比喩に頼らない仕方で具体的に記述することを目指す。

 

司会:村山正碩

 

主催:哲学オンラインセミナー

 

Zoomミーティングルーム:Slackの#generalチャンネルをご覧ください。開催が近づきましたらチャンネル内でURLが公開されます。

分析美学の前提知識はなくても大丈夫なので、ぜひお気軽にご参加ください。

ちなみに、アイキャッチは『分析美学基本論文集』の表紙のカラーリングを参考にして作成しました(古典の趣きを出したくて)。

原さんの発表ではレヴィンソンの理論が検討されますが、本論文集にはレヴィンソンの論文「文学における意図と解釈」が収録されているので、予習してみたいという方にはいいかもしれません。

銭さんの発表にて検討されるキャサリン・エイベル『フィクション:哲学的分析』は、フィクションの哲学の最前線に位置づけられるもので、制度論(グァラ等)の枠組みに依拠した議論を展開している点が特徴です。

銭さんは本書についてレビューも書いています。

ワークショップの打ち合わせでは、本書の装画(ジョン・カリンの絵画)をいかに解釈すべきかについて議論する一幕もありました。

私の発表では、要旨には示していませんが、主要参考文献としてアーロン・リドリーの以下の著作を取り上げるつもりです。

その筋の方であれば装画を見て察知するかもしれませんが、本書はニーチェ研究の本になります(いわゆる分析系ニーチェ研究の本です)。

ただし、本発表は本書の第一章、もっとも長い章でありながら、いまだニーチェの登場しない章に注目するため、じつはそれほどニーチェには関係ありません。

本書の議論の検討のほか、分析系の行為論や芸術哲学の議論を幅広く参照する予定です(スチュアート・ハンプシャーやベリス・ガウトなど)。

なお、本発表における私の問題意識の一部は以下の記事で示されています。

ちなみに、近刊「表出性と創造性:表出説を改良する」も、本発表とは問題意識を暗に共有していたりするので、こちらもぜひ。

 

〈追記:20220607〉

無事ワークショップを終えたので、ここに僕の発表資料を掲載しておきます。

サルでもわかる逆遠近法

逆遠近法とは何でしょうか。

わかりやすい記述と例を示したのち、逆遠近法がわかりにくい理由を考えてみます。

逆遠近法のわかりやすい記述

コトバンクに載っている以下の記述が一番わかりやすいと思います。

ぎゃく‐えんきんほう ‥ヱンキンハフ【逆遠近法】
〘名〙 遠近関係を表現するのに、前方にある物を後方のものより小さく描く絵画技法。近世の絵巻物や浮世絵などにみられる。
出典 精選版 日本国語大辞典

「前方にある物を後方のものより小さく描く」がポイントです。

ついでに言えば、逆遠近法とは〈遠近法の逆〉なので、この記述を逆にすれば遠近法の記述になります。

両者を並べてみましょう。

  • 遠近法 :前方にある物を後方のものより大きく描く絵画技法。
  • 逆遠近法:前方にある物を後方のものより小さく描く絵画技法。
逆遠近法のわかりやすい例

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数年前よく見かけた「行くぜ、東北。」のポスターです。

電車の前方が小さく、後方が大きく描かれています。

これは上の記述に合致しており、逆遠近法の例です。

念のため、遠近法の例も見てみましょう。

f:id:Aizilo:20220130125635p:plain

いらすとやの線路のイラストです。

線路の前方が大きく、後方が小さく描かれています。

遠近法/逆遠近法は幾何学の観点からより厳密に理解することも可能ですが、初歩的な理解としてはこれくらいで十分なはずです。

逆遠近法がわかりにくい理由

逆遠近法は絵画技法なので、逆遠近法を知ろうとする人は画像検索するでしょう。

しかし、「逆遠近法」で画像検索してみると、いくつか困ったことが起きます。

第一に、遠近法の例と逆遠近法の例の両方が出てきてしまいます。

第二に、逆遠近法の例であったとしても、たいていは(洋の東西を問わず)近代以前の絵画作品なのですが、複雑だったり、微妙だったりして、わかりにくいです。

第三に、これこそこの記事を書いた動機なのですが、じつは約半数の画像がここでいう「逆遠近法」とはそもそも無関係だったりします。

どうやら、まったく異なる二つの現象が「逆遠近法」と呼ばれているようなのです。

この記事で解説しなかった方の逆遠近法の例はこれです。

パトリック・ヒューズの作品は浮き彫りですが、浮き彫りの物理的な凹凸と浮き彫りに描かれた空間の凹凸を反転させることで、不思議な視覚的効果を生み出しています。

ともあれ、この作品が「前方にある物を後方のものより小さく描く絵画技法」を用いたものではないことは明らかでしょう。

すでに解説した方の逆遠近法と比べ、こちらは後発の表現技法であり、コトバンクにも記載がありません。

「逆遠近法」の二つの用法をまとめておきましょう。

  1. 前方にある物を後方のものより小さく描く絵画技法。
  2. 浮き彫りの物理的な凹凸と描かれた空間の凹凸を反転させる表現技法。

「逆遠近法」には二つの異なる用法が存在しますが、これに注意を促す記事は見当たりませんでした(検索結果の上位に表示されなかったということです)。

「逆遠近法」について知ろうとする者が混乱するのも無理はないでしょう。

 

 

アボガド6の心身問題

アボガド6の連作

アート作品とは受肉化された意味である。

アーサー・ダントー

 

アボガド6には人間の精神状態を扱った一連の作品(以下、連作)が存在する。

ここでは具体例として四つの作品を挙げよう。

視覚的修辞

アボガド6の連作は私が「視覚的修辞」と呼ぶ表現技法の事例となっている。

視覚的修辞をおおまかに説明すると以下のようになる。

視覚的修辞は画像に見られ、それは率直な描写と対照的である。

私たちは画像のうちにさまざまな対象やその性質を見ることができるが、率直な描写の場合、画像のうちに見える対象の性質はそのまま画像世界に存在する。

たとえば、ストレート写真や写実絵画では、画像のうちに赤いトマトや四角いまな板が見えるとき、トマトの赤さ、まな板の四角さはそのまま画像世界に存在するといえる。

一方、視覚的修辞の場合、画像のうちに見える対象の性質の一部は画像世界にはなく、むしろ画像世界において対象がもつ他の性質を伝える道具としての役割を担う。

非写実的な画像にはそうした現象がしばしば見られる。

私のお気に入りの例はエル・グレコだが、より親しみやすい事例は、少女マンガなどで用いられる、特定の人物の周囲を花が取り囲む表現技法だろう。

私たちは作品世界において、その人物が実際に花に取り囲まれているとは考えない。

むしろ、その人物は際立って美しいとか、高貴であるとか、あるいは花言葉に対応する何らかの性質をもっていると考えるものだ。

このとき、画像のうちに見える花々は、画像世界には存在しないが、画像世界において登場人物がもつ美しさや高貴さなどの性質を伝える道具の役割を果たしており、ゆえに視覚的修辞であると見なすことができる。

視覚的修辞に対する私たちの反応は、隠喩や皮肉などの言語的修辞に対するそれと似ている。

たとえば、「あの男は狼だ」という隠喩に対して、私たちは字義的な読みを避け、男を狼だと見なすのではなく、狼に(文化的に)結びつけられている狡猾さといった性質を男はもつのだと捉える。

視覚的修辞という概念は、言語だけでなく、画像にも「字義的な読み」を回避して理解すべき表現技法が存在することをあぶり出すべく考案されたものなのである。

さて、アボガド6の連作はあきらかに視覚的修辞の事例であるように思われる。

『心配事』の場合、私たちは画像のうちにキャラクターが万力に頭を挟まれているのを見るが、〈万力に頭を挟まれている〉は画像世界においてキャラクターがもつ性質ではなく、むしろ、キャラクターがもつ〈頭を締めつけられる感覚〉を伝える道具であると理解すべきだろう。

少なくとも私は、アボガド6の連作をこのように理解してきた。

二つの質問

私の理解について、二つの質問を投げかけることが可能だ。

二つの質問は一文で表現することができる。

  • アボガド6の連作はなぜ視覚的修辞でなければならないのか。

この文は強調点を変えることで二つの質問を構成する。

  • アボガド6の連作はなぜ視覚的修辞でなければならないのか。
  • アボガド6の連作はなぜ視覚的修辞でなければならないのか。

第一の質問は連作の視覚性に焦点を当てる。

『心配事』の要点は、心配事で頭を締めつけられる感覚を、万力に頭を挟まれることに喩える点にあるように思われる。

とはいえ、これは画像ではなく言語によっても成し遂げることができるだろう。

そして、同様のことは、特定の精神状態の感じられ方を他の何かに喩える点で共通する他の作品にも指摘できる(『立ちくらみ』のようにあきらかに言語では成し遂げがたい効果をもつ作品も存在するのだが)。

では、アボガド6の連作(の一部)は何らかの言語的修辞に置換可能なのか。

言い換えれば、なぜ視覚的でなければならないのか。

この質問は、画像一般がもち、言語一般がもたない性質に訴えることで応答できるかもしれない。

『心配事』は言語では(容易には)得られない仕方で豊かな情報量をもつ、あるいは、ただ言語とは情報伝達の仕方が異なるために、画像ならではの意義をもつ、と。

これはつまらない、おそらく強引でもある応答だが、一つの応答ではあるだろう。

第二の質問は連作の修辞性に焦点を当てる。

そもそも、私たちはなぜ連作を修辞として理解しなければならないのか。

『心配事』の場合、画像世界においてキャラクターは実際に万力に頭を挟まれていると捉えて何が悪いのか。

言い換えれば、なぜ修辞でなければならないのか。

応答は簡単である。

結局のところ、タイトルが『心配事』である以上、私たちは作品に描かれているものを心配事に結びつけなければならず、実際に万力に頭を挟まれていると捉えた場合、この結びつきは失われてしまう。

私たちはなおもキャラクターに頭を締めつけられる感覚を帰属できるかもしれないが、それは万力に頭を挟まれている感覚であり、心配事を抱えた際の感覚ではもはやない。

質問者はこの応答に対して、連作はキャラクターの姿が心のありように対応してそこに描かれたとおりに変化する摩訶不思議な世界を率直に描いたものだと解釈できると言うかもしれないが、そう解釈すべき積極的な理由はないように思われる。

このように、二つの質問に一応の応答を行うことはできる(質問者がそれで満足するか若干怪しいところもあるが)。

とはいえ、私にとって上記の応答は決定的に不十分であり、アボガド6の連作の重要な点を見逃しているようにみえる。

アボガド6の連作が興味深いのは、それが担う意味のために、自らが視覚的修辞であることを要請する点にあるのではないか。

以下では、連作(ひいてはアボガド6作品一般)における身体と精神の関係を考察することで、この点を明らかにしたい。

身体と精神、そして画像

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは身体と精神の関係について以下の箴言を残している。

人間の身体は魂の最良の画像(picture/Bild)である。

この一文は、スタンリー・カヴェルによれば、「ヴェールとしての身体という神話」に取って代わろうとするものである。

テキスト解釈の難しい問題に踏み込む代わりに、ここから有益な図式を取り出そう。

問題となっているのは二つの対立する身体観である。

  • ヴェールとしての身体
    精神を隠すものとして身体を捉える。
  • 画像としての身体
    精神を示すものとして身体を捉える。

常識的理解に照らせば、二つの身体観は真偽を争って決着がつくようなものではなく、強調点が異なるだけである。

結局のところ、身体は精神を示すこともあれば、隠すこともあるものだ。

会話相手の表情が見えないとコミュニケーションがぎこちなくなるのは、相手の精神を把握するための重要な手段が失われているからに違いない。

一方、詐欺師の作り笑いのように、身体は精神を覆い隠したり、偽装したりするための道具にもなりうる。

ウィトゲンシュタインはおそらく他我問題に対処すべく、身体がもつ精神を示す側面を強調したが、興味深いのは、彼がその際に身体を画像に喩えた点である。

アボガド6の連作はまさにその画像だが、ウィトゲンシュタインとは対照的に、身体がもつ精神を隠す側面を強調するものだと私は解釈する。

そして、より重要なことに、連作は身体が精神を示すその力の限界を、さらに、画像が身体以上に精神をうまく示すことができることを、画像によって示す試みである、と。

身体と画像のパラゴー

私の解釈を展開し、その説得力を示すため、二三の事柄を指摘したい。

第一に、アボガド6にはヴェールとしての身体を主題化した作品が複数存在する。

三つの例を示そう。

これらの作品はいずれも、身体が精神を覆い隠したり、偽装したりしうるさまを描いたものだ(私はこの点を否定する適切な解釈が思いつかない)。

アボガド6はヴェールとしての身体に継続的な関心を示しており、このことは連作にも同様の関心が現れていると考えるように促す。

第二に、アボガド6は連作において、精神状態を表現するための二つの手法を利用することである種のギャップを生み出している。

二つの手法とは、身体の率直な描写と精神の視覚的修辞である。

まず、ウィトゲンシュタインの指摘するとおり、身体は精神を示すことができるため、身体を率直に描くことで精神状態を表現することができる。

これは写実絵画の基本戦略であり、カラヴァッジョの『トカゲに噛まれた少年』はその好例だ。

次に、すでに説明したように、視覚的修辞を用いて精神状態を表現することもできる。

連作では、視覚的修辞は主題となる精神状態がどのように感じられるかという点を示すために用いられている。

つまり、連作は心配事、キャパオーバー、立ちくらみ、「瞼の裏のプラネタリウム」がどのように感じられるかを視覚的修辞によって示している。

そして、アボガド6は二つの手法を利用して、〈身体に示されたものとしての精神〉と〈感じられたものとしての精神〉のギャップを鮮明に伝えているのだ。

連作において、身体が精神をまったく示さないということはあまりない(『心配事』におけるシャツを掴むしぐさはもちろん、たいていの作品における表情の繊細な描写にも精神の幾ばくかを読み取ることはできるだろう)。

しかし、身体が精神を示していたとしても、画像が視覚的修辞という固有の表現技法によって示す〈感じられたものとしての精神〉はよりはるかに強烈なのである。

実際のところ、キャラクターの表情等の身体動作を誇張して描く第三の手法も選択肢にあったはずだが、アボガド6は採用していない。

そうしてしまえば、鑑賞者は問題のギャップを認識できなくなるからだろう。

また、連作ではこの種のギャップが顕著な精神状態が主題に選ばれることが多い。

得点の喜びはゴールパフォーマンスとして身体によってはっきり示されるが、心配事、キャパオーバー、立ちくらみ、「瞼の裏のプラネタリウム」ではそうもいかないのだ。

こうした点から、連作は身体が精神を示すその力の限界を、さらに、画像が身体以上に精神をうまく示すことができることを、画像によって示す試みだといえる。

 

ダメ押しとして、視覚的修辞の構造に改めて注目してもよい。

視覚的修辞では、花に取り囲まれていることからそのキャラクターが美しさや高貴さをもつことがわかるように、画像のうちに見える性質を道具として、画像世界に存在する性質に鑑賞者はアクセスすることになる。

そして、道具となる性質は画像のうちに見えるだけで、画像世界には存在しないという点を思い出そう。

これは画像世界の住人が、(鑑賞者が視覚的修辞を通して認識できる)キャラクターの精神を認識できないことを示唆する(メタフィクション的表現などの例外は認められるべきだが)。

連作の場合、住人が認識できるのはキャラクターの身体を通して示される希薄な精神でしかなく、ここでもやはり問題のギャップを確認できるのだ。

二つの質問、再び

いま、私たちは二つの質問によりうまく応答できる立ち位置にある。

まず、連作はなぜ修辞でなければならないのか。

むしろ、キャラクターの姿が心のありように対応してそこに描かれたとおりに変化する摩訶不思議な世界を率直に描いたものだと解釈できないか。

身体が精神をつねに完璧に示すこの世界がユートピアか、それともディストピアか知る由もないが、ともあれ、私たちが画像のうちに見るものはそのまま画像世界に存在することになり、作品をより明快に理解できるようになるのだから。

しかし、この解釈の問題点はもはや明らかである。

連作において重要なのは、身体に示されたものとしての精神と感じられたものとしての精神のギャップだが、この解釈ではギャップは生じない。

連作に込められた意味を捉えるには、それを修辞と見なす必要があるのだ。

次に、連作はなぜ視覚的でなければならないのか。

少なくとも一部の作品は言語的修辞に置き換えることができるのではないか。

これに対して、私たちはそんなことはできないとはっきり言うことができる。

とりわけ心配になる事例は『心配事』だが、心配事で頭を締めつけられる感覚を万力に頭を挟まれることに喩えたところで、二つの経験の類似性が指摘されるだけで、問題のギャップは明示されないのだ。

質問者はここで、一文で簡単に置き換えることはできないとしても、問題のギャップを扱うことは言語にもできるのだから、置換可能性がなくなるわけではないと応酬を重ねようとするかもしれない。

それならば、私は前述の画像一般の性質に訴える薄ぼんやりした応答を肉づけしよう。

連作は身体に示されたものとしての精神と感じられたものとしての精神を空間的に併置することで、それらのギャップを効果的に伝えることに成功している。

そして、空間的併置は言語には叶わないのである。

むすび:心の秘密

アボガド6はもっとも成功している「Twitter絵師」の一人である。

R・G・コリングウッドが残した下記の言葉が現代日本にも通用するならば、本稿の議論はその成功の理由(の一端)を示唆するものだと私は信じている。

芸術家は、来るべき事柄を予告するという意味でではなく、自らの観客に、彼らを不快にするという危険を冒して、観客自身の心の秘密を告知するという意味で、予言をしなければなりません。芸術家としての彼の任務ははっきりと語ること、すなわち告白することなのです。

 

 

芸術作品を作りそこねるとはどういうことか:一つの理解

芸術作品を作りそこねることについて二人の美学者が議論している。

二つの記事で第一に問題となっているのは、「failed-art」なるクラスが実際に存在することを認めるかどうかである。

「failed-art」とはクリスティ・マグワイアが提唱した概念で、銭清弘さんの表現では、「芸術なりそこない」とでも呼べるようなものを指す。

銭さんはこのクラスの実在に懐疑的だが、難波優輝さんは鴻浩介さんの議論を参考に、このクラスの実在を認めている。

私は下記ツイートが示唆するように、「failed-art」が実際に存在してもおかしくないと考えているが、難波さんとは大きく異なる理路に基づいている。

この記事では、上記ツイートのアイデアをより具体的に展開したい(主に自分の思考の整理のために)。

 

マグワイアの議論を受けて、銭は「failed-art」を以下のように特徴づけている。

「failed-art」は「失敗作」「駄作」のニュアンスではなく、非芸術、すなわち〈芸術ではない〉ものの一種とされている。

芸術としての試みの産物でありつつ、その成功条件をクリアしていないような「芸術なりそこない」らしい。

いわば、「failed-art」とは芸術制作の試みの失敗の産物なのだが、駄作、つまり価値の低い芸術作品ではなく、そもそも芸術作品ではない何かである。

このような特徴づけを与えることのできるクラスをどう理解すべきだろうか。

私の理解では、〈試みの成否〉と〈成果の価値の高低〉の区別が重要である。

ここでは例としてトマト栽培を考えよう。

私はトマトの種を土に埋め、どうにかトマトの果実を収穫しようとしている。

その後、私は無事に果実を実らせることができたが、それはおいしいとはいえない代物だった。

このとき、私はトマト栽培の試みを成功させたが、その成果の価値は低い。

これは芸術制作の場合でいう駄作である。

一方、私は果実を実らせること自体できず、苗を枯らしてしまうかもしれない。

私の手元には枯れた苗が残るが、これはトマト栽培の試みの失敗の産物であり、成果の価値の高低を云々できるものではない。

そして、芸術制作においてこれに対応するものこそ「failed-art」だと私は考える。

一つの問題は、〈成果の価値の高低〉以前の問題として捉えるべき芸術制作の〈試みの成否〉の基準をどう理解すればよいかという点である。

私はこれを完成概念に訴えればよいと考えている。

つまり、作品が完成すれば芸術制作の試みは成功だが、完成しなければ失敗である。

作品が完成するとはどういうことかという点は今日の分析美学でも議論されているが、いかなる見解を採るにせよ、完成するか否かが芸術制作の試みの成否の基準となる。

実際、芸術実践において評価の対象となるのは完成した作品である。

たとえば、画家が筆を投げ、未完に終わったキャンバスを芸術作品として評価するのは不適切だろう。

そして、このキャンバスは「failed-art」の特徴づけに当てはまる。

この議論の教訓は、それらを何と呼ぼうと、私たちは二つのカテゴリーを区別しないといけないということだ。

  • 芸術制作の試みの成功の産物(完成した作品)であり、価値が低い。
  • 芸術制作の試みの失敗の産物(未完に終わったキャンバスなど)である。

最後に、銭が問題にしていた「failed-art」の訳語を考えてみよう。

私が理解するところの「failed-art」に近いニュアンスの日本語は「ボツ」である。

また、「失敗作」という語も、価値が低い芸術作品を指すだけでなく、ボツに対応する用法をもつのではないだろうか。

実際、ピクシブ百科事典では後者の用法が念頭に置かれているようだ。

 
 
 
 
 

ティ・グエン「芸術はゲームだ」

松永伸司『ビデオゲームの美学』の帯には「ビデオゲームは芸術だ!」というキャッチフレーズが用いられている(松永さんではなく編集者の言葉らしい)。

今回訳出して紹介するのは、これとは対照的に、「芸術はゲームだ」と題されたティ・グエンの記事である(なお、ビデオゲームではなく広義のゲームが扱われている)。

グエンの問いは簡単かつ素朴だ。

芸術鑑賞において、なぜ私たちは正しさ(正しい理解や判断)に関心をもつのか。

なぜ正しさを気にせず、自由に、好きなように楽しまないのか。

この問いに対して、グエンはゲームにおけるモチベーション構造を分析し、それを芸術鑑賞に応用することで応答を試みている。

議論を通して浮かび上がるのは、芸術鑑賞とゲームプレイとの共通点、また芸術鑑賞と正しさに関心をもつ他の多くの領域(科学や倫理など)との相違点である。

議論の過程でなされる、「バカゲーム」と呼ばれる種のゲームやロッククライミングの味わいに関する分析も楽しいのでお見逃しなく。

なお、原文における斜体は太字に、リンクはそのまま訳文に反映している。

(「セルアウト」という語には訳者が解説記事のリンクを付した。)

最後に、本ブログで過去にグエンの文章を紹介した記事のリンクを貼っておこう。

以下、訳文。

芸術はゲームだ

私たちは芸術を理解しようと奮闘する。細部に目を凝らし、最高の解釈を探求する。ある作品が素晴らしいのか、うわべを取り繕っているだけなのか、議論を交わす。「最高傑作」のリストを交換し、その順位について難癖をつけ合う。しかし、私たちがこれほど正しい理解に大きな関心をもつようにみえるのはなぜだろうか?ただリラックスして、手当たり次第に楽しめるものを楽しむのではいけないだろうか?

私の提案はこうだ。真に重要なのは奮闘である。私たちは作品を理解するために作品を調べ、作品について長い会話を交わすわけではない。実際にはその逆だ。私たちが作品を理解しようと奮闘するのは、そのような楽しい会話をしたり、驚きに満ちた調査に駆り立てられたりするためである。私たちはこうしたプロセスを楽しむために芸術鑑賞の慣習を形成してきたのであり、奮闘がもたらす満足、つまり、慎重な注意、解釈、評価がもたらす快を得るために芸術作品に取り組む。以上の点で、芸術鑑賞はゲームに似ている。ゲームでは、ゴールや制限がゲーミング活動を形成し、それをプレイヤーが夢中になれるような奮闘へと微調整する。

芸術鑑賞を一種のゲームとして考えることは、芸術鑑賞の奇妙に入り組んだ「ルール」を理解するうえで役に立つ。とりわけ、芸術鑑賞における主体的判断の価値をめぐる長年の議論の解決に役立つ。問題はこうだ。芸術鑑賞には深い緊張関係にあると思われる二つの規範が存在する。一方で、私たちは正しい判断をすることに関心があるようにみえる。自分の信念や判断が作品の細部に合致することを望むのだ。他方で、私たちは心の根本的な主体性に価値を置いているようにもみえる。たとえば、私たちは自分でゴッホを判断し、その奇妙な、ねじれ、沸き立つ生気を経験することが求められる。また、カニエの新しいアルバムが高く狙いをつけすぎた悲劇的失敗なのか、誤解された傑作なのか、それとも怠惰なセルアウトなのか、自分で判断することが求められる。私たちは、他人の証言だけで、この作品は美しい、失敗している、などと断定すべきでないと考えているように思われる。芸術作品は自分自身で判断すべきなのだ。

しかし、これら二つの要求は深く対立しているようにみえる。知的生活の他の部分では、正しさへの関心が主体性の要求に勝ることが多い。正しい理解を望むのであれば、専門家に委ねるのが普通だ。どのような薬を飲むべきかについては医師に、車のどこを修理すべきかについては整備士に委ねる。科学の専門家でさえ、他の何千人もの専門家に頼らなければならない。では、私たちが芸術鑑賞において本当に正しい理解に関心をもっているならば、同じく専門家に従うべきではないのか?結局、ベートーヴェンは豊かできらめく感情や反応の数々を私に与えるかもしれないが、ベートーヴェンがやっていることの多くを理解するために必要とされる音楽理論について、私はほとんど知らない。もし私がベートーヴェンについて正しく判断したいのであれば、クラシックの専門家に委ねればいいのではないか?しかし、そうしてしまうと芸術鑑賞の活動全体について重要な何かを見逃してしまうように思われる。この問題には一つの伝統的な説明がある。これによれば、ここで見逃されているのは美的判断の本質的な主観性である。つまり、美的判断が私自身の主観的反応の表出にすぎないならば、美的判断を他人に委ねるのはばかげている、というわけだ。

私はここで、まったく異なる説明を与えようと思う。美的判断に客観的なものが存在するのは十分にありえることだ。ただし、私たちが正しい答えを追求する理由は、芸術鑑賞と他の多くの客観的領域とでは異なる。科学の場合、私たちは実際に正しい答えを得ることに関心をもつ。しかし、芸術鑑賞の場合、私たちは正しい答えを得ようとする活動に取り組むこと、すなわち、見る、探す、想像する、解釈する、という一連のプロセスを辿ることに最大の関心をもつ。ゆえに、専門家任せにはしないのだ。正しい判断は芸術鑑賞のゴールだが、目的ではない。芸術鑑賞の価値は、実際に正しい判断を行うことにではなく、正しい判断を得ようとする活動にある。

ここではゲームのたとえが有益だ。パズルゲームでは、私たちはネットで答えを調べて済ませようとはしない。また、すでに謎を解いたことのあるエキスパートの意見に従うこともしない。とはいえ、エキスパートの解答が主観的だからというわけではない。多くの場合、パズルには客観的に正しい単一の解答が存在する。そして、もし正しい解答を得ることだけが重要なのだとすれば、可能なかぎり効率的な手段(たいていはネット検索)で解答に辿りつくべきだ。しかし、多くの場合、私たちはネット検索で済ませようとはしない。この活動の要点は自分で正しい解答を見つけ出すことにあるからだ。

この点をよりよく理解するには、ゴールと目的を区別する必要がある。活動のローカルゴールとは、活動中にあなたが目指し、追求するもののことである。活動の目的とは、そもそもその活動をあなたが始めた理由であり、その活動に見いだす真の価値のことである。一部のプレイヤーにとって、ゴールと目的は同じであるか、近似している。たとえば、オリンピック選手は本当にただ勝ちたいからこそ勝とうとし、プロのポーカープレイヤーは勝って得られるお金が欲しいから勝とうとする。しかし、他の多くのプレーヤーにとっては、ゴールと目的は大きく異なる。多くの場合、私がロッククライミングに行く目的は、頭のなかで延々と続くおしゃべりな声を黙らせて、リラックスすることにある。しかし、リラックスするためには、岩の頂上に到達するというローカルゴールに身を投じる必要がある。クライミングに完全に没頭するためには、活動に応じた献身が必要であり、その献身こそが頭をすっきりさせるのに必要なものである。しかし、より広い視点に立つと、頂上に到達するかどうかはそれほど気にならない。仮に失敗続きの一日に終わったとしても、精神的にリフレッシュして帰ることができれば、それは良い一日なのだ。

したがって、ゲームを遊ぶ際には二つのまったく異なるモチベーション構造が存在する。第一に、人は「達成プレイ」、つまり、〈勝つこと自体(または金銭など、勝利がもたらす何か)の価値のためのゲームプレイ〉に取り組むことができる。第二に、人は「努力プレイ」、つまり、〈奮闘(またはフィットネスやリラクゼーションなど、奮闘がもたらす何か)の価値のためのゲームプレイ〉に取り組むことができる。注意すべきは、努力プレイに取り組む者が望ましい奮闘を行うには、実際に勝とうとしなければならない点である。とはいえ、そうした人々にとって重要なのは勝つことではなく、プレイすることである

もし努力プレイの可能性を疑うなら、「バカゲーム」とでも呼ぶことのできるゲームの存在を考えてみよう。これは第一に、失敗が楽しく、第二に、楽しむためには勝とうとしなければならないゲームのことである。たとえば、ツイスターや伝言ゲーム、また飲み会で行われるゲームのほとんどがこれにあたる。ツイスターでおもしろいのは転んだときだ。しかし、わざと転んではおもしろくない。転んでおもしろいのは、本当に失敗したときだけであり、そして心から成功しようとしていたときだけが、本当に失敗したときなのである。

バカゲームは努力プレイの可能性を明らかにするものだ。私たちはそこで成功を追求するが、成功に価値を置くわけではない。むしろ、思わず笑ってしまうような失敗を経験することが目的なのである。議論を一般化しよう。ゴールと目的の違いは、あらゆる種類の楽しいゲームに見いだすことができる。たとえば、友人とボードゲーム大会を開いたとしよう。多くのゲームは、プレイヤーが闘争に夢中になってはじめて楽しいものになる。楽しむためには、本気で勝とうとしなければならない。とはいえ、もし負けたとしても、その夜を無駄にしたことにはならない。本当に重要なのは、勝ち負けではなく、勝とうとする試みを楽しんだかどうかだ。そう思わないのは、真の負けず嫌いだけだろう。

努力プレイはモチベーションの逆転をともなう。日常生活では、目標のために手段を選ぶ。一方、努力プレイでは、手段のために目標を選ぶ。私たちはプレイヤーが仕向けられる奮闘に応じて、ゴールを選ぶのだ。

私が提案したいのは、芸術鑑賞も努力志向の活動の一種だということだ。私たちは芸術作品について正しい判断を得ることを目指すが、正しい判断を得ることは本当の要点ではない。もし正しさが真の目的であれば、正しい答えを得るために全力を尽くすべきであり、その場合、たいていは専門家に判断を委ねることになる。しかし、これは要点を外している。たとえ数々の誤りにつながるとしても、自分で作品に向き合う方がはるかに良い。芸術鑑賞の価値は、自分で作品を解きほぐすプロセスにあるのだ。また、ガイドブックに鼻を突っ込んで、専門家が吟味した意見をなぞるだけの人は、負けず嫌いがくだらないパーティーゲームに負けて絶望するのと同じ過ちを犯している。つまり、楽しい努力を生み出すように設計された活動に、達成志向の考え方を持ち込んでしまっているのである。ガイドブックに執着する人物は、芸術鑑賞が達成志向の活動であると、正しい判断をすべて得ることができれば芸術で勝てると思い込んでいる。

私の説明を芸術鑑賞の「向き合い説engagement account」と呼ぼう。これによれば、芸術鑑賞の主要な価値は、正しい判断をもつことにではなく、正しい判断を生み出すプロセスにある。向き合い説は、専門家に委ねることの何が問題かを明確にするうえで役に立つ。芸術の専門家に委ねるということは、パズルゲームをしていて、その答えをネットで調べるようなものだ。つまり、ローカルゴールをより大きな目的と勘違いし、活動の要点を見逃しているのである。

ここでいう要点とは、何から何まで自分でやらなければならないというものではない。向き合い説は、他人を頼りにすることを完全に放棄することを要求しない。たとえば、芸術教育の価値を否定するわけではない。向き合い説は、それが私たち自身の旅の終着点ではなく、出発点となり、助けとなるかぎりで、他人を頼りにし、そこから学ぶことができるとする。私たちは、他人に作品の新しい見方を提案してもらい、自分が見落としていた細部に注意を向けることができる。もちろん、それを利用して、自身による更なる積極的取り組みを育むことが条件である。まとめると、向き合い説は、作品との更なる向き合いを駆り立てるような美的信頼に好意的である一方、作品との向き合いを短絡的なものにしてしまう種の追従には好意的ではない。

しかし、そもそもなぜ正しさを目指すのか?ただ純粋な想像力の自由に気持ちよく浸っていればよいのではないか?望みのまま、信じたいものを信じ、無視したい細部を無視してはどうだろうか?ゲームとのアナロジーはこれに対する一つの答えを示唆している。ゲームにおいて、私たちは特定のゴールと制限を採用するが、そうするのは、私たちが非常に特殊な形式の活動に従事することを可能にしてくれるためである。たとえば、ロッククライミングでは、苦労して崖の頂上に到達するという人工的なゴールを設定する。また、ヘリコプターや滑車を用いない、ロープやギアを引っ張らない、岩の自然な特徴を自分の手足だけを使って進む、といった人工的な制限を受け入れる。こうした制限は、しばしば初心者に奇妙な印象を与える。「なぜロープを引っ張ってはいけないの?その方がずっと楽なのに」と尋ねる初心者は多い。答えはこうだ。もしロープを使って体を引き上げることを許してしまうと、ほとんどのクライミングが、少数の簡単な動作で延々と体を引き上げるという、似通った退屈な作業になってしまう。しかし、岩の自然な特徴を利用することだけが許されている場合、絶え間なく変化する岩の特徴に注意を払う必要が出てくる。岩の微妙な凹凸やポケットを探し出し、刻々と変化する細部に対して斬新な解決策を生み出さなければならないのだ。いわば、ロッククライミングのルールは、細心の注意と臨機応変な創造性が発揮される、どこまでも可変的で挑戦的な、絶えず更新される活動を彫琢しているのである。そして、私たちがそうした奇妙な制約を受け入れるのは、このプロセスを愛しているからだ。

私の提案は、芸術鑑賞も同じように構成された慣習だというものだ。私たちは、自分自身で考え抜くという制約を採用しながら、正しさというゴールを受け入れるが、それは、慎重で、熱心で、創造的な注意の一つの特殊なかたち、つまり、新しい作品の一つひとつに対応して、その都度新たに調整し直さなければならないような注意を自分で彫琢するためである。そして、私たちはこの独特で、愛情のこもった、細やかな注意を呼び起こし、育むために、鑑賞の対象である芸術作品それ自体を構築するのである。

そして、向き合い説は私たちが繊細で複雑な作品に価値を見出す理由を説明してくれる。明快な作品では、向き合いのプロセスは非常に短いものになってしまう。他方で、繊細で曖昧な作品は、長く、満足のいく向き合いのプロセスを維持してくれる。ここで私たちは正しさを追求しているが、それは正しさそれ自体のためではなく、試行錯誤のプロセスに夢中になるためだ。それゆえ私たちは、結論が得られそうな感覚を与えて誘惑してくるが、何らかの新しく瑞々しい可能性をつねに秘めているような活動を生み出そうとしてきた。芸術作品との生活は、最終的かつ決定的な論証で終わりにできるものではなく、オープンエンドで、いつまでも続く対話であってほしいのである。

このことは、科学や道徳と芸術鑑賞とのあいだにある深い相違を示している。結局のところ、もし医学の大きな謎を解明したり、何らかの道徳的ジレンマを解決する最終回答を思いついたりした場合、私たちは少しほっとするかもしれない。もし誰かが道徳的ジレンマをすべて解決する本を書いていたら、私は確実に自分で読みたいし、他の人にも読むように勧めるだろう。しかし、もし誰かが『カラマーゾフの兄弟』に含まれるあらゆる謎や曖昧さをきれいさっぱり説明して、決定的で説得力のある解釈を提供するマニュアルを書いたとすれば、私はひどく悲しむだろう。何か本当に素晴らしいものが世界から失われたかのように感じられるのだ。そして、私としては、それを読みたいとは思わない。