アメリカ哲学フォーラムで「芸術作品が鑑賞者の心を表現するとき:分析美学とコリングウッド」という発表を行いました。
たとえば、私たちは特定のポピュラーソングを指して、自分の感情を(自分ではうまくできなかった仕方で)うまく表現していると言うことがありますが、そのような現象の内実を探究する内容です。
こちらで発表資料を公開しておきます。
なお、偶然にも、同種の現象は先月出たばかりの源河亨さんの新刊『愛とラブソングの哲学』でも扱われています(幸運にも、該当箇所はウェブで読むことができます )。
今回の発表の目的は謙虚なものであると同時に、謙虚であることを促すものでした。
すなわち、ウォルトンとリベイロをはじめとする分析美学者の議論をコリングウッドが先取りしていること、より一般的かつ体系的な議論を行っていること、これらを示すという目的です。
実際、分析美学者と同じ現象について、コリングウッドが半世紀以上前に議論していることは明白な事実です。
詩を読んで理解するとき、人は単に詩人によるその感情の表現を理解するだけではなく、詩人の言葉において自分の感情を表現しているのであり、したがって、その言葉はその人自身の言葉となる。
(Collingwood 1938: 118)
しかし、私の知るかぎり、この点を指摘している文献はありません。
ウォルトンやキャロルは(芸術家による自己表現や感情の明確化について論じる哲学者として)コリングウッドの名前を挙げているにもかかわらず、なぜかこの点を知らないようです(ちゃんと読んでいないということでしょう)。
私としては、ひとまずこの点を示すことさえできれば、今回の発表は十分に報われると考えています。
また、今回の発表は論文化する予定ですが、その際は今回扱えなかった論点を加えて、分析美学者の議論をより批判的に検討するつもりです。
お楽しみに。