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スフレを穴だけ残して食べる方法

「趣味のニーチェ的基準について」資料公開

美学会で「趣味のニーチェ的基準について」という発表を行いました。

趣味(センス)の良し悪しが問われる際の基準にはどんなものがあるんだろう、という問いを探究しています。

こちらで発表資料を公開しておきます。

タイトルにもあるように、今回の発表では、フリードリヒ・ニーチェとその二次文献を参照しました(議論の枠組み自体は分析美学のそれですが)。

私の研究をある程度知っている人からすると、分析美学とコリングウッドについて研究していた人が、いきなりニーチェを扱いだしたということで、唐突に映ってもおかしくないはずです。

そこで、以下では、その経緯について記すことにします(実際に発表を聴いているか、発表資料に目を通している方に向けた裏話です)。

簡単に言うと、二つの流れがあります。

一つは、アレクサンダー・ネハマスの影響です。

ハマスは今回の発表でも盛んに参照しましたが、彼は哲学史研究と美学研究の両方を行っており、ニーチェ研究の大家でもあります。

彼の著作のおそらく唯一の邦訳はニーチェ論です。

他方で、私がネハマスに出会ったのは美学の文脈でした。

彼の美学的主著『幸福の約束にすぎない』では、有名な「ネハマスの悪夢」という思考実験をはじめ、美と芸術に関する洞察に富んだ議論が多数含まれています*1

彼の議論は体系性を欠いており、体系的な理論を打ち立てる野心も感じられませんが、どこまでも示唆的で、読者にさらなる探究を行うよう誘います(ニーチェの戦略に似ています)。

そして、彼の議論に心を掴まれた私は、彼のいくつかの論点を発展させるような研究をやってみたいとかねてより考えていました。

今回扱った趣味の基準はまさしくそのような論点の一つです。

ここでも、彼の議論は示唆に留まるものですが、彼はニーチェの一節を引用しており、そこに何か重要なものがあると伺わせています。

自らの特性に「スタイルを与える」こと――それは偉大で稀有な芸術である! それは、自らの特性のあらゆる強みと弱みを調査し、次いでそれを一つの芸術的計画に組み入れ、かくして、そのいずれもが芸術や理性として現れ、弱みでさえも目を喜ばせる者たちによって実践される。〔中略〕最終的に、作品が完成したとき、単一の趣味による制約がいかに大小のすべてを支配し、形成していたかが明らかになる。それが単一の趣味でさえあったなら、その良し悪しは人が思うほど重要ではない!
(GS 290)

しかし、この一節に出会った時点で、私の専門分野からすると、ニーチェはあまりにも遠すぎる人物であり、この一節もエキゾチックな魅力を感じさせるまででした。

状況が変化したのは、もう一つの流れ、アーロン・リドリーの影響によるものです。

リドリーは、ネハマスに似て、美学研究とニーチェ研究を両方行っている人物ですが、私はコリングウッド美学の文脈で彼に出会いました。

彼はコリングウッド美学の再評価の立役者の一人であり、私自身、その著作を通じて、コリングウッドが単なる歴史的関心の対象ではなく、現代哲学に対して多大なる貢献をなしうる人物であると認識するに至りました。

たとえば、リドリーは芸術制作に関するコリングウッドの議論が行為論に対して重要な洞察を提供すると指摘しています。

私はこれに賛同して、「意図を明確化するとはどういうことか:作者の意図の現象学」という論文を書きました。

この論文の主要参考文献の一つはリドリーの著作です。

ただし、その本の主題はコリングウッドではなく、ニーチェです。

この本を買った時点では、ニーチェについてほとんど何も知りませんでした。

ただ、レビューを読み、コリングウッドに着想を得た行為の理論が提示されているとのことで、不安を覚えながらも、望みをかけて手を出しました。

結論から言えば、手を出して大正解でした。

私の関心に沿う議論が含まれていただけでなく、その議論はニーチェを一切扱わない章(第一章)で展開されていました。

私はまだニーチェに手をつけずに研究していられたわけです。

他方で、リドリーによれば、ニーチェコリングウッドとよく似た行為の理論をもっていたということで、私はニーチェにも関心をもつようになりました。

そして、リドリー本の最終章、「自己」と題されたその章は、ニーチェの自己創造論を論じるもので、ネハマスが引用していた一節も取り上げられていました。

この一節は、ニーチェの自己創造論が展開されているものとして、広く参照されていることがわかりました。

ここで、二つの流れが合流し、私はニーチェの自己創造論を、二次文献の力を借りて、ネハマスの趣味論を発展させるために利用することを考えたわけです。

 

発表にあたって、あのニーチェを援用するということで、私が良くも悪くも何か物議をかもすような議論を展開するのではないかと予想された方もいるかもしれません。

他方で、私の狙いとしては、リドリーの表現を使えば、「印象的な、印象的に穏当な」議論をニーチェから引き出すことでした。

結果的に、私の発表はどちらの極に振れたでしょうか。

ぜひ皆さんのご意見を仰ぎたいところです。

*1:ちなみに、美学会で発表した際は、司会の林卓行さんが持っているよと本書を見せてくれました。なんでも表紙に惹かれてジャケ買いしたとのこと。本書の装丁の素晴らしさは書評でもよく言及されているので、そうなったのも頷けます。