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スフレを穴だけ残して食べる方法

「自己を表現し、理解し、再解釈すること:アンリ・マティスの場合」資料公開+あとがき

哲学若手研究者フォーラムにてワークショップ「美学と自己」を開き、そこで「自己を表現し、理解し、再解釈すること:アンリ・マティスの場合」を発表しました。

今回の発表は、ケーススタディだけで構成された内容であり、自分の研究としては初の試みです。

以下、その発表資料になります。

主役はアンリ・マティスとR・G・コリングウッド、そしてニック・リグルの三人です。

マティスの芸術制作では、自己に対していかなる働きかけが行われているか〉を探究する内容で、そのためにマティス自身の発言、コリングウッドの哲学、リグルの批評を取り上げています。

リグルの批評(マティス論)はこのブログで訳出しており、具体的にどういう言い方をしているか気になる方はチェックしてみてください。

今回の発表では十分に論じられなかった〈表出性〉とは何かについては、過去に書いた以下の論文をご参照ください(あとがきはこちら)。

コリングウッド的自己表現(別名:自己理解としての自己表現)の具体例をもっと知りたい方はパトリシア・タウンゼンドの著作がおすすめです。

私の知るかぎり、芸術的創造性の質的・現象学的研究でもっともすぐれたものの一つであり、コリングウッドへの言及こそありませんが、いかに多くの造形芸術家が自己理解としての自己表現に取り組んでいるかがよくわかる一冊です。

自己表現の観点からマティスを論じた本にはトッド・クロナンのものがあります。

彼の作品は、理解のモードとしての表現の限界と力についての深い考察として見る方がよい。彼の作品が明らかにしているのは、より一般的に表現の本質に関することである。つまり、他者に対して自己を表現するには、他者との差異を認めることが必要であり、この差異は孤立を招きかねないと同時に、あらゆる結びつきを再現不可能な贈り物のようにする。
(p.  220)

最後に、うれしいことに、分析美学仲間の銭清弘さんが本発表への応答として、批評を上げてくれました(以前に書いたが、本発表と呼応する内容、とのこと)。

ここで、文体を変えて、いくつかコメントしよう(大半は、本発表の論点を明確化するためのものである)。

私は銭さんのシンディ・シャーマン論に完全に説得させられており、マティスの絵画とシャーマンの写真が好対照をなすという指摘も完全に同意する。

また、以前からお互いに感じていたであろう、銭さんとのある種の芸術観(さらには、趣味)の違いが浮かび上がる結果となり、たいへん楽しく読むことができた。

さて、銭さんの記事において「自己の埋没」と対比される「自己表現」と、私が今回の発表や博論に至る一連の研究で関心をもっている「自己表現」には、一つの違いがあるようにみえる(実際のところ、丁寧に読めば必ずしも違いはないが、以下に示す読みをとる人はいるはずだ)。

その違いは〈他者とのコミュニケーション〉との関係にある。

銭さんが「自己表現」について語るとき、そこには他者とのコミュニケーションという要素がともなっているように読める部分がある。

作者のパーソナリティを知られることは、マティスの芸術にとって成功であり、シャーマンの芸術にとって失敗である。

肖像画は、ある人物の裏にあったりなかったりする気質や地位、思想や性格を絵や写真に「込める」ことで、鑑賞者になんらかの信念や態度を形成させることをしばしば意図されている。

しかし、コリングウッド的自己表現に従事する芸術家は、必ずしも他者に自分の感情や思考を伝えようとするわけではない。

芸術家はもっぱら自分が何を感じ、何を考えているかをより明確に把握したいだけかもしれない。

発表でも論じたように、この試みは公的な媒体(言葉や絵具、音など)の操作を通して行われるが、結果として、芸術家が達成した自己理解は、その操作された媒体、いわば作品に内容(表出性など)として記録される。

もちろん、その作品を鑑賞して、〈作者はこれこれの感情や思考を抱いている〉と解釈することはなおも可能だが、これは作者の(自分に関する情報を伝えたいという)伝達意図を要求しない。

とはいえ、作者が不意に自分の内面(差別的信念など)を露呈させてしまうケースとも違い、コリングウッド的自己表現では、作者は意図的に自分の感情や思考を媒体に定着させようとしている(そうしなければ、十分に自分の内面を意識できない)。

ここには、他者との意図的コミュニケーション、不意の露呈とは概念的に区別された、第三の現象が存在している。

コリングウッドの議論が理論的に興味深いのは、この概念的ニッチについて論じている点によるところが大きい。

そして、作者が他者とのコミュニケーションを意図せず、鑑賞者が作品に作者の内面を読み取らない場合でも、作者と鑑賞者のあいだにはある種の心の交歓が生じうる。

すなわち、発表でも指摘したように、鑑賞者は作品を通して、それまで十分に意識できなかった自分の感情や思考を意識できるようになることがある。

同じ作品の同じ内容から、作者と鑑賞者は共通の自己理解を獲得できるのだ。

コリングウッドは、芸術を「共同体の薬」と呼び、それが芸術家自身のみならず、その共同体の人々の自己理解にも寄与するとして、その重要性を訴えている。

現に、『芸術の原理』の第三部では、コリングウッド的自己表現の共同体的性格が論じられ、「個人主義」の見解が退けられている。

私の研究はまだこの論点を掘り下げる段階には至っていないが、博論の一部として取り組む予定だ。

最後に、コリングウッド的自己表現の対象(そこで表現されるもの)について一言補足しておこう。

それは〈自分が何を感じ、何を考えているか〉であり、すなわち、自分の感情や思考、経験である。

重要なのは、それがパーソナリティを対象としていないことだ。

「自己表現」をパーソナリティの表現と見なすことは自然であるため、この点は混乱を招きかねないだろう。

私自身、芸術作品を芸術家のパーソナリティの表現と見なすことに慎重である(今回、同ワークショップにおける岡田進之介さんの発表を聴き、この論点の興味深さを再確認した)。

以前、私はアボガド6の作品について論じたことがある。

私は作品のうちに、作者が何を感じ、何を考えているかを見る。

私は作品のうちに、作者のパーソナリティを見ずにいる。

しかし、それを気にする必要などあるだろうか?