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スフレを穴だけ残して食べる方法

「表出性と創造性:表出説を改良する」日本語要旨+あとがき

『新進研究者 Research Notes』(第5号)に「表出性と創造性:表出説を改良する」が掲載されました。

この論文について、要旨、問題意識、あとがきを記してみます。

要旨と問題意識

本文中の要旨が英語表記のため、日本語版をこちらに掲載します。

分析美学では、表出性の表出説はよく知られているが、不人気である。というのも、幾度となく指摘されてきたように、表出説には致命的な反例がありふれているのだ。本稿は表出説を直接擁護する代わりに、R. G. Collingwoodの理論に基づいて表出説を弱め、改良する。通説に反して、Collingwood自身は表出性の表出説を提唱したわけではないが、彼の表出的プロセスの理論はこの文脈においてなおも有用である。改良された表出説は表出性の原因を十分に説明しないものの、表出性を創造的に生み出すための合理的な方法に光を照らす。

日本語にしたところで、分析美学の背景知識を前提した書き方をしているので、ピンとこない方が多いかと思います。

おおまかに言えば、この論文の問題意識は以下のようなものです。

マンガによく見られる、閃きの感覚を表現するための技法として、閃き豆電球(💡)が存在します。

この表現技法はおなじみのものであり、私たちはこれを用いて自分の閃きを伝えたり、自分の閃きを伝えることなく、作中のキャラクターの閃きを伝えたりすることができるでしょう。

これは慣習的な表現技法の単なる適用による感情表現の事例であり、創造的なものではないことはあきらかです。

他方で、エルヴァルド・ムンクテイラー・スウィフトなどの芸術家たちは、創造的な感情表現を達成している点で称賛されています。

たとえば、以下の一節が示すように、スウィフトの楽曲「レッド」は恋愛感情の斬新な表現です(また、表現される感情も非常に独特できめ細かいものです)。

彼を愛することは新車のマセラティで行き止まりの道路を突っ走るようなもの(Loving him is like driving a new Maserati down a dead-end street)

さて、創造的な感情表現はいかにして達成されるのでしょうか。

この問題は慣習的な表現技法とも無関係ではありません。

閃き豆電球は使い古された表現技法ですが、その考案者にとってはそうではありませんでした(一説では、初出はアニメ「フェリックス」とされています)。

閃き豆電球の考案者は創造性を発揮し、一つの偉大なる伝統を切り拓いたわけですが、それはいかにして行われたのでしょうか。

〈創造的な感情表現はいかにして達成されるのか〉という問いに取り組むうえで、私は表出性の表出説という「よく知られているが、不人気」な説に注目するわけです。

この問い(と私の応答方針)に関心のある方はぜひ本論を読んでみてください。

表出性の表出説、再訪

本論の一つのポイントは表出性の表出説(以下、表出説)を丁寧に検討していることにあります。

感情表現をめぐる分析美学の議論では、表出説は(喚起説と並んで)素朴な見解として頻繁に登場し、いくつかの難点を簡単に指摘され、ただちに退場させられてしまう雑魚キャラ的存在です。

この雑魚キャラはトルストイ、デューイ、コリングウッドなどといった高名な思想家が支持していたと見なされることがあります。

実際のところ、先行研究でも指摘されるように、私の研究対象であるコリングウッドは表出説の支持者ではありません。

また、私はトルストイやデューイなど、表出説の支持者とされる他の思想家には詳しくないため、表出説の実際の支持者が存在するのか、正直よくわかりません。

なんせ、表出説は雑魚キャラなのですから、高名な思想家に結びつけることには慎重でなければならないように思われるのです。

とはいえ、表出説が高名な思想家に結びつけられる現状を前提すると、表出説は高名な思想家が支持したくなるような、何らかの魅力をもっている可能性があるとも考えられます。

そこで、本論では、表出説の魅力を最大限引き出すべく、その改良を行いました。

(高名な思想家が実際に表出説を支持していたとすれば、好意的に読めば、それは私が定式化した改良版と似たものだろうと推測します。)

とりわけ、私は表出説に対して局所的な擁護論証を提示していますが、これは表出説が見かけほど素朴ではないことを示しており、一つの見どころになっていると思います。

表出性から自己表現へ

最後に、個人的な話ですが、本論は図らずも私の関心の変遷を象徴しています。

修士論文において、私は画像における表出性の獲得メカニズムを研究しました。

その際、私は本論でも言及したグリーンの著作を大いに参照しました。

他方で、私はロビンソンの著作にも触れており、そこで論じられていたコリングウッド美学に感銘を受け、関心が自己表現(真正の表出)に移行した経緯があります。

本論は、表出性に関する分析美学の標準的な議論から、コリングウッドの議論へと移行するような構成となっており、意識していたわけではないのですが、私の関心の変遷と対応しています。

なお、本論の執筆後、私は「作者の意図」という悪名高い概念に取り組む発表を行っていますが、本論と同様、コリングウッドの精神を継承したものとなっています(近く、本ブログであとがきを書く予定です)。