#EBF6F7

スフレを穴だけ残して食べる方法

「些細な自己知と実質的な自己知:自己知の哲学入門①」(カシーム・カサーム)

自己知(self-knowledge)の哲学という分野がある。

自己知とは、典型的には、自分の心的状態(信念や欲求など)についての知識のことだ。

今回は、自己知の哲学に従事しているカシーム・カサーム(Quassim Casssam)が執筆した「自己知へのビギナーズガイド」を訳出した。

カサームには『人間のための自己知』という著作があり、本ビギナーズガイドの背景をなしている。

本書の序文は、「自己知について書くことの不都合な点の一つは、哲学に馴染みのない者に自分のことを説明しなければならないことである」という一文で始まる。

どういうことだろうか。

カサームは以下のように言う。

実際、それはまさしく、哲学者が関心をもつだろうと非哲学者が期待する種の主題である。しかし、今日の哲学者が「自己知」で何を意味しているかを説明しようとすると、失望が始まる。

(p. vii)

専門家の実践とそれに対する非専門家の期待のギャップはよくあるが、主題に応じて、ギャップの内実や出自は異なるだろう。

カサームは本ビギナーズガイドにおいて、自己知の哲学に見られるこの種のギャップが具体的にどのようなものか、何に由来するか、なぜ埋められなければならないかを説明している。

 

なお、今回は全文を数回に分けて訳出する。

原文がわりと長いため、一気に出そうとすると、訳す方も読む方も大変だからだ。

人名は基本的に原文の表記をそのまま用いている。

強調を示す斜体は太字に置き換えた。

以下、訳文。

自己知へのビギナーズガイド

イントロダクション

このビギナーズガイドで扱うのは自己知の哲学だ。自己知について考えたり書いたりしているのは哲学者だけではない。心理学者も多くのことを語っており、自己知に対する心理学的アプローチについては後ほど論じる。また、Proustの『失われた時を求めて』やJane Austenの『エマ』などの偉大な文学作品を読むことで、自己知の本性や源泉に関する洞察を得ることもできる。心理学的、文学的アプローチと比較すると、自己知の哲学はドライで難解だ。その理由の一つは、哲学者が、私が「実質的(substantial)」な自己知と呼ぶものとは異なる、比較的些細(trivial)な自己知に集中する傾向にあるためである。本稿では、なぜ些細な自己知が、私たちが通常「自己知」と呼ぶものでもないにもかかわらず、哲学者にとって非常に興味深いものに映るのかについて説明する。実質的な自己知は、日常的な意味での自己知にはるかに近く、哲学者はこの意味での自己知にもっと注意を払うべきだと提案したい。

本稿で取り上げるところの自己知の哲学は、東洋哲学ではなく西洋哲学だ。自己知はインド哲学中国哲学イスラム哲学の主要なトピックだが、私自身の専門は、西洋の「分析的」伝統と呼ばれるものである。なお、本稿に出てくる多くの見解は、2014年にオックスフォード大学出版局より出版された私の著作『人間のための自己知』でより詳細に説明されている。

はじめよう

自己知とは何か?この質問に対する自然で一般的な答えの一つは、「本当の自分(true self)」とときに呼ばれるものについての知識だ、というものである。これは、私が日常的な意味での自己知と呼んでいるものだ。このような考え方において、本当の自分とは、本当の「あなた(you)」であり、あなたの本当の性格、価値観、欲求、情動、信念で構成されている。他者、またはあなた自身が、あなたはこうだと信じていることとは区別される、あなたの本当のあり方のことである。本当の自分とは、他者や自分自身に見えているだけの自分なのではなく、あるがままの自分なのだ。自己知の探究とは、本当の自分を探究することだと考えてもよいだろう。

もちろん、このような考え方は、「本当の自分」なるものが存在することを前提しており、これに疑問をもつ人もいる。この問題はひとまず措いて、自己知に関する通常の考え方のもう一つの特徴は、自己知を獲得するのは容易ではないと見なされている点である。本当の自分を知るということは、真の「認知的(cognitive)」ないし知的達成であり、時間と努力を要する。そして、努力を要するものとして自己知を考えると、自然に次のような疑問が湧いてくる。自己知の意味や価値は何か?自己知をもっているとどんないいことがあるのか、それをもたないと何を失うのか?

自己知がもつに値するということは、しばしば当然のように受け入れられている。自己知に価値があるのは、大雑把に言えば、自己知がないよりも、あった方が幸せになれるからだと考える人もいる。しかし、それは必ずしも明らかではない。もしかすると、知らない方が幸せでいられる、自分自身に関する真実があるかもしれない。その場合、自己知の価値を説明するには、別のところに目を向ける必要があるかもしれない。Socratesが示唆した、有意味な生を送るためには自己知が必要だという考えや、それに関連して、「自分らしく(authentically)」、つまり、自分自身に、本当の自分に誠実に生きるためには自己知が必要だという考えが思い浮かぶかもしれない。自己知の価値に対するこのような説明が正しいかどうかは、自己知の哲学者にとっての素晴らしい問いのように聞こえる。

自己知の哲学的描像

驚かれるかもしれないが、これまで私が記述してきたような問題は、自己知についての(西洋)哲学的説明の焦点にはなっていない。少なくとも17世紀以降、その焦点は別のものに向けられてきた。たとえば、あなたは自分が靴下を履いていると信じていて、自分がそう信じていることを知っているとしよう。自分が靴下を履いているという信念は、あなたの現在の「心の状態(states of mind)」の一つであり、多くの哲学者は、自分が靴下を履いていると信じていることを知っていることが「自己知」の一形式であると言いたいだろう。同じことが、頭痛がするとか、今夜映画を見に行きたいということを知ることにも言える。これらはすべて、哲学的な意味での「自己知」の例だ。靴下の例では、自分が靴下を履いていることを知っているかどうかが問題なのではなく、自分が靴下を履いていると信じていることを知っているかどうか、どのように知っているかが問題になっていることに注意しよう。

自己知についてのこの考え方は、あなたにとって意外なものかもしれない。まず、自分が靴下を履いていると信じていることを知ることが、本当の自分、本当のあなたについて知ることであるとは考えにくい。あなたが「より深い」信念をもち、それが本当のあなたを構成することは間違いないが、自分は靴下を履いているという信念は確実にそうではない。私が最初に記述した自己知とは異なり、自分が靴下を履いていると信じていること、頭痛がすること、今夜映画を見たいことについての知識は、非常に退屈で些細な部類の自己知であるように見える。見たところ、このような些細な自己知を獲得することは難しくなく、大した認知的達成を示すわけでもない。また、特別に有用で価値があるとも思えない。自分が靴下を履いていると信じていることを知ることが、いったい何の役に立つというのだろうか?

このような例についてもう少し考えてみると、「些細」な自己知と「実質的」な自己知を区別するのは自然なことである。この区別については、『人間のための自己知』の第3章で詳しく説明しているが、そこでは、両者の違いは程度の差であり、ある自己知が「些細」か「実質的」かには、多くの考慮事項が関わっていると示唆している。直観的には、自分が靴下を履いていると信じていることや、映画を見たいことを知ることは、スペクトルのより些細な端に位置する例である。ここで示唆しているのは、自分の信念や欲求についての知識がつねに些細だということではなく、しばしば些細だということだ。これに対して、実質的な自己知には、自分の性格、価値観、能力、情動についての知識が含まれる。たとえば、自分が優しい人間であること、今の仕事に向いていないこと、兄弟に深い恨みを抱いていることの知識がこれに当てはまるかもしれない。実質的な自己知とは、「本当の」自分についての知識なのだと思うかもしれないが、そう考える必要はない。実質的な自己知に関する重要な点は、それが真の認知的達成を示すものであり、価値をもつと見なされるための明白な言い分を(それが正しいかどうかは別として)有するということである。

この区別を用いて言えば、近年の哲学的議論の多くは、実質的な自己知よりもむしろ些細な自己知に関して行われてきた。なぜだろうか?それは、17世紀のDescartes以来、多くの哲学者が、些細な自己知の特異性特別さに心を奪われてきたからだ。かれらは、その特別さが、些細な自己知を実質的な自己知や他の種の知識から区別すると考える。このアプローチでは、このような「特別」な自己知がいかにして可能かを説明することが哲学的課題となる。この観点からすると、実質的な自己知は、依然として人間にとって重要かもしれないが、些細な自己知のような特別さがないため、哲学的にはそれほど興味深いわけではない。むしろ、自己とは何の関係もないような、他の知識にはるかに近い。

そこで、次の問題は、些細な自己知が特別だというのは本当なのかどうかということだ。仮に本当だったとしても、それは実質的な自己知をないがしろにする言い訳にはならない。実質的な自己知が人間としての私たちに対してもつ重要性を考えれば、自己知の哲学者はそれについて実際よりもはるかに多くのことを語ってくれるだろうと、あなたは期待したことだろう。『人間のための自己知』において、私は、哲学が些細な自己知の特別さを過大評価し、実質的な自己知の哲学的意義を過小評価する傾向にあると論じている。この点については、また後ほど立ち返ろう。まず、ある種の自己知について想定されている特別さが何なのかをはっきりさせておく必要がある。

 

【つづく】