#EBF6F7

スフレを穴だけ残して食べる方法

「芸術作品が鑑賞者の心を表現するとき:分析美学とコリングウッド」資料公開

アメリカ哲学フォーラムで「芸術作品が鑑賞者の心を表現するとき:分析美学とコリングウッド」という発表を行いました。

たとえば、私たちは特定のポピュラーソングを指して、自分の感情を(自分ではうまくできなかった仕方で)うまく表現していると言うことがありますが、そのような現象の内実を探究する内容です。

こちらで発表資料を公開しておきます。

なお、偶然にも、同種の現象は先月出たばかりの源河亨さんの新刊『愛とラブソングの哲学』でも扱われています(幸運にも、該当箇所はウェブで読むことができます )。

今回の発表の目的は謙虚なものであると同時に、謙虚であることを促すものでした。

すなわち、ウォルトンとリベイロをはじめとする分析美学者の議論をコリングウッドが先取りしていること、より一般的かつ体系的な議論を行っていること、これらを示すという目的です。

実際、分析美学者と同じ現象について、コリングウッドが半世紀以上前に議論していることは明白な事実です。

詩を読んで理解するとき、人は単に詩人によるその感情の表現を理解するだけではなく、詩人の言葉において自分の感情を表現しているのであり、したがって、その言葉はその人自身の言葉となる。
(Collingwood 1938: 118)

しかし、私の知るかぎり、この点を指摘している文献はありません。

ウォルトンやキャロルは(芸術家による自己表現や感情の明確化について論じる哲学者として)コリングウッドの名前を挙げているにもかかわらず、なぜかこの点を知らないようです(ちゃんと読んでいないということでしょう)。

私としては、ひとまずこの点を示すことさえできれば、今回の発表は十分に報われると考えています。

また、今回の発表は論文化する予定ですが、その際は今回扱えなかった論点を加えて、分析美学者の議論をより批判的に検討するつもりです。

お楽しみに。

「趣味のニーチェ的基準について」資料公開

美学会で「趣味のニーチェ的基準について」という発表を行いました。

趣味(センス)の良し悪しが問われる際の基準にはどんなものがあるんだろう、という問いを探究しています。

こちらで発表資料を公開しておきます。

タイトルにもあるように、今回の発表では、フリードリヒ・ニーチェとその二次文献を参照しました(議論の枠組み自体は分析美学のそれですが)。

私の研究をある程度知っている人からすると、分析美学とコリングウッドについて研究していた人が、いきなりニーチェを扱いだしたということで、唐突に映ってもおかしくないはずです。

そこで、以下では、その経緯について記すことにします(実際に発表を聴いているか、発表資料に目を通している方に向けた裏話です)。

簡単に言うと、二つの流れがあります。

一つは、アレクサンダー・ネハマスの影響です。

ハマスは今回の発表でも盛んに参照しましたが、彼は哲学史研究と美学研究の両方を行っており、ニーチェ研究の大家でもあります。

彼の著作のおそらく唯一の邦訳はニーチェ論です。

他方で、私がネハマスに出会ったのは美学の文脈でした。

彼の美学的主著『幸福の約束にすぎない』では、有名な「ネハマスの悪夢」という思考実験をはじめ、美と芸術に関する洞察に富んだ議論が多数含まれています*1

彼の議論は体系性を欠いており、体系的な理論を打ち立てる野心も感じられませんが、どこまでも示唆的で、読者にさらなる探究を行うよう誘います(ニーチェの戦略に似ています)。

そして、彼の議論に心を掴まれた私は、彼のいくつかの論点を発展させるような研究をやってみたいとかねてより考えていました。

今回扱った趣味の基準はまさしくそのような論点の一つです。

ここでも、彼の議論は示唆に留まるものですが、彼はニーチェの一節を引用しており、そこに何か重要なものがあると伺わせています。

自らの特性に「スタイルを与える」こと――それは偉大で稀有な芸術である! それは、自らの特性のあらゆる強みと弱みを調査し、次いでそれを一つの芸術的計画に組み入れ、かくして、そのいずれもが芸術や理性として現れ、弱みでさえも目を喜ばせる者たちによって実践される。〔中略〕最終的に、作品が完成したとき、単一の趣味による制約がいかに大小のすべてを支配し、形成していたかが明らかになる。それが単一の趣味でさえあったなら、その良し悪しは人が思うほど重要ではない!
(GS 290)

しかし、この一節に出会った時点で、私の専門分野からすると、ニーチェはあまりにも遠すぎる人物であり、この一節もエキゾチックな魅力を感じさせるまででした。

状況が変化したのは、もう一つの流れ、アーロン・リドリーの影響によるものです。

リドリーは、ネハマスに似て、美学研究とニーチェ研究を両方行っている人物ですが、私はコリングウッド美学の文脈で彼に出会いました。

彼はコリングウッド美学の再評価の立役者の一人であり、私自身、その著作を通じて、コリングウッドが単なる歴史的関心の対象ではなく、現代哲学に対して多大なる貢献をなしうる人物であると認識するに至りました。

たとえば、リドリーは芸術制作に関するコリングウッドの議論が行為論に対して重要な洞察を提供すると指摘しています。

私はこれに賛同して、「意図を明確化するとはどういうことか:作者の意図の現象学」という論文を書きました。

この論文の主要参考文献の一つはリドリーの著作です。

ただし、その本の主題はコリングウッドではなく、ニーチェです。

この本を買った時点では、ニーチェについてほとんど何も知りませんでした。

ただ、レビューを読み、コリングウッドに着想を得た行為の理論が提示されているとのことで、不安を覚えながらも、望みをかけて手を出しました。

結論から言えば、手を出して大正解でした。

私の関心に沿う議論が含まれていただけでなく、その議論はニーチェを一切扱わない章(第一章)で展開されていました。

私はまだニーチェに手をつけずに研究していられたわけです。

他方で、リドリーによれば、ニーチェコリングウッドとよく似た行為の理論をもっていたということで、私はニーチェにも関心をもつようになりました。

そして、リドリー本の最終章、「自己」と題されたその章は、ニーチェの自己創造論を論じるもので、ネハマスが引用していた一節も取り上げられていました。

この一節は、ニーチェの自己創造論が展開されているものとして、広く参照されていることがわかりました。

ここで、二つの流れが合流し、私はニーチェの自己創造論を、二次文献の力を借りて、ネハマスの趣味論を発展させるために利用することを考えたわけです。

 

発表にあたって、あのニーチェを援用するということで、私が良くも悪くも何か物議をかもすような議論を展開するのではないかと予想された方もいるかもしれません。

他方で、私の狙いとしては、リドリーの表現を使えば、「印象的な、印象的に穏当な」議論をニーチェから引き出すことでした。

結果的に、私の発表はどちらの極に振れたでしょうか。

ぜひ皆さんのご意見を仰ぎたいところです。

*1:ちなみに、美学会で発表した際は、司会の林卓行さんが持っているよと本書を見せてくれました。なんでも表紙に惹かれてジャケ買いしたとのこと。本書の装丁の素晴らしさは書評でもよく言及されているので、そうなったのも頷けます。

「自己を表現し、理解し、再解釈すること:アンリ・マティスの場合」資料公開+あとがき

哲学若手研究者フォーラムにてワークショップ「美学と自己」を開き、そこで「自己を表現し、理解し、再解釈すること:アンリ・マティスの場合」を発表しました。

今回の発表は、ケーススタディだけで構成された内容であり、自分の研究としては初の試みです。

以下、その発表資料になります。

主役はアンリ・マティスとR・G・コリングウッド、そしてニック・リグルの三人です。

マティスの芸術制作では、自己に対していかなる働きかけが行われているか〉を探究する内容で、そのためにマティス自身の発言、コリングウッドの哲学、リグルの批評を取り上げています。

リグルの批評(マティス論)はこのブログで訳出しており、具体的にどういう言い方をしているか気になる方はチェックしてみてください。

今回の発表では十分に論じられなかった〈表出性〉とは何かについては、過去に書いた以下の論文をご参照ください(あとがきはこちら)。

コリングウッド的自己表現(別名:自己理解としての自己表現)の具体例をもっと知りたい方はパトリシア・タウンゼンドの著作がおすすめです。

私の知るかぎり、芸術的創造性の質的・現象学的研究でもっともすぐれたものの一つであり、コリングウッドへの言及こそありませんが、いかに多くの造形芸術家が自己理解としての自己表現に取り組んでいるかがよくわかる一冊です。

自己表現の観点からマティスを論じた本にはトッド・クロナンのものがあります。

彼の作品は、理解のモードとしての表現の限界と力についての深い考察として見る方がよい。彼の作品が明らかにしているのは、より一般的に表現の本質に関することである。つまり、他者に対して自己を表現するには、他者との差異を認めることが必要であり、この差異は孤立を招きかねないと同時に、あらゆる結びつきを再現不可能な贈り物のようにする。
(p.  220)

最後に、うれしいことに、分析美学仲間の銭清弘さんが本発表への応答として、批評を上げてくれました(以前に書いたが、本発表と呼応する内容、とのこと)。

ここで、文体を変えて、いくつかコメントしよう(大半は、本発表の論点を明確化するためのものである)。

私は銭さんのシンディ・シャーマン論に完全に説得させられており、マティスの絵画とシャーマンの写真が好対照をなすという指摘も完全に同意する。

また、以前からお互いに感じていたであろう、銭さんとのある種の芸術観(さらには、趣味)の違いが浮かび上がる結果となり、たいへん楽しく読むことができた。

さて、銭さんの記事において「自己の埋没」と対比される「自己表現」と、私が今回の発表や博論に至る一連の研究で関心をもっている「自己表現」には、一つの違いがあるようにみえる(実際のところ、丁寧に読めば必ずしも違いはないが、以下に示す読みをとる人はいるはずだ)。

その違いは〈他者とのコミュニケーション〉との関係にある。

銭さんが「自己表現」について語るとき、そこには他者とのコミュニケーションという要素がともなっているように読める部分がある。

作者のパーソナリティを知られることは、マティスの芸術にとって成功であり、シャーマンの芸術にとって失敗である。

肖像画は、ある人物の裏にあったりなかったりする気質や地位、思想や性格を絵や写真に「込める」ことで、鑑賞者になんらかの信念や態度を形成させることをしばしば意図されている。

しかし、コリングウッド的自己表現に従事する芸術家は、必ずしも他者に自分の感情や思考を伝えようとするわけではない。

芸術家はもっぱら自分が何を感じ、何を考えているかをより明確に把握したいだけかもしれない。

発表でも論じたように、この試みは公的な媒体(言葉や絵具、音など)の操作を通して行われるが、結果として、芸術家が達成した自己理解は、その操作された媒体、いわば作品に内容(表出性など)として記録される。

もちろん、その作品を鑑賞して、〈作者はこれこれの感情や思考を抱いている〉と解釈することはなおも可能だが、これは作者の(自分に関する情報を伝えたいという)伝達意図を要求しない。

とはいえ、作者が不意に自分の内面(差別的信念など)を露呈させてしまうケースとも違い、コリングウッド的自己表現では、作者は意図的に自分の感情や思考を媒体に定着させようとしている(そうしなければ、十分に自分の内面を意識できない)。

ここには、他者との意図的コミュニケーション、不意の露呈とは概念的に区別された、第三の現象が存在している。

コリングウッドの議論が理論的に興味深いのは、この概念的ニッチについて論じている点によるところが大きい。

そして、作者が他者とのコミュニケーションを意図せず、鑑賞者が作品に作者の内面を読み取らない場合でも、作者と鑑賞者のあいだにはある種の心の交歓が生じうる。

すなわち、発表でも指摘したように、鑑賞者は作品を通して、それまで十分に意識できなかった自分の感情や思考を意識できるようになることがある。

同じ作品の同じ内容から、作者と鑑賞者は共通の自己理解を獲得できるのだ。

コリングウッドは、芸術を「共同体の薬」と呼び、それが芸術家自身のみならず、その共同体の人々の自己理解にも寄与するとして、その重要性を訴えている。

現に、『芸術の原理』の第三部では、コリングウッド的自己表現の共同体的性格が論じられ、「個人主義」の見解が退けられている。

私の研究はまだこの論点を掘り下げる段階には至っていないが、博論の一部として取り組む予定だ。

最後に、コリングウッド的自己表現の対象(そこで表現されるもの)について一言補足しておこう。

それは〈自分が何を感じ、何を考えているか〉であり、すなわち、自分の感情や思考、経験である。

重要なのは、それがパーソナリティを対象としていないことだ。

「自己表現」をパーソナリティの表現と見なすことは自然であるため、この点は混乱を招きかねないだろう。

私自身、芸術作品を芸術家のパーソナリティの表現と見なすことに慎重である(今回、同ワークショップにおける岡田進之介さんの発表を聴き、この論点の興味深さを再確認した)。

以前、私はアボガド6の作品について論じたことがある。

私は作品のうちに、作者が何を感じ、何を考えているかを見る。

私は作品のうちに、作者のパーソナリティを見ずにいる。

しかし、それを気にする必要などあるだろうか?

「意図を明確化するとはどういうことか:作者の意図の現象学」あとがき

応用哲学会誌(Contemporary and Applied Philosophy)に論文「意図を明確化するとはどういうことか:作者の意図の現象学」が掲載されました。

芸術制作を行為論の枠組みに位置づけ、現象学的アプローチから、芸術制作にともなうコントロールと自己知(意図知)のあり方を探究する内容です。

この記事では、あとがきとして、論文の舞台裏などの与太話を書いていきます。

内容はこんな感じです。

以下、書きやすいように〈だ・である〉体で書きます。

元となった発表との違い

今回の論文は、昨年開催のワークショップ「作者の意図、再訪」の発表「創造的行為における意図とその明確化」に基づいている。

以上が発表資料だが、発表と論文はいろいろな点で異なっている。

一番大きな変化はパッケージングだろう。

論文の副題は「作者の意図の現象学」だが、発表では、「現象学」というキーワードはほとんど現れていなかった。

とはいえ、この点で議論の中身に大きな変化があったというわけではなく、単に、私が自分の研究の性格について理解を深めた結果、装いを新たにしたにすぎない(この点は後述)。

その他、議論の中身に関する変化として、いくつかの論点が明確化されたほか、後半の議論に実質的な発展が生じたが、かなり専門的な話になるので、ここで詳細に記すのは避けよう。

ともあれ、発表資料はレジュメ形式であり、論文よりも認知負荷が低いので、ざっくり内容を掴むために発表資料の方から覗いていただくのもよいと思う。

エピグラフについて

学術論文(そして哲学論文)にエピグラフをつけることがどれだけ大胆なことなのかはよくわからないが、いつもどおり、今回の論文でもエピグラフをつけなかった。

しかし、もしつけるなら、私はJ・R・R・トールキン指輪物語』から以下の四行連を引く*1

All that is gold does not glitter,
Not all those who wander are lost;
The old that is strong does not wither,
Deep roots are not reached by the frost,

金はすべて光るとは限らない。

放浪する者が皆迷っているとは限らない。

年老いても強いものは枯れない。

深い根に霜は届かない。

力強く美しい詩だが、注目すべきは二行目だ。

「放浪する者が皆迷っているとは限らない」とは、一見奇妙な記述である。

しかし、私はこの詩行が図らずも、芸術制作ないし創造的行為の一つの側面をよく言い当てていると思っている。

典型的に、芸術家は自分の目的地を漠然としか把握していないにもかかわらず、そこに辿りつくための能力を、じれったいほどに頼りないものだが、間違いなくもっている。

その意味で、芸術家は「放浪する者」でありながら、「迷っているとは限らない」。

そして、私が論文で探究したのは、これが具体的にどのような事態なのかということであった*2

三つの問題系とのつながり

今回の論文は芸術制作を主題とする点で美学の論文だが、私は美学を専門にしている者以外にも読んでもらいたいと思っている。

論文では、議論の背景をなす問題系の一つとして行為の現象学を挙げたが、ここでは、行為の現象学を行為論と現代現象学に分け、そこにメタ哲学を加えた三つの問題系とのつながりを示したい。

行為論

C・ティ・グエンはあるとき、以下のように語っている。

以前、私はゲームについて、分析哲学の確立された用語で書くことに苦労していた。そんなとき、私の友人であり、長年の哲学仲間であるジョナサン・ギングリッチが、この問題の所在をじつに見事に説明してくれた。彼は言う。価値、合理性、行為者性に関する現代の哲学理論は、道徳屋たち(moralists)によって取り込まれている。私たちの理論は、倫理学者や政治哲学者が、自分たちに特有の関心事に対処するために設計された。その結果、私たちは、自分たちが厳格で、まっすぐで、生真面目な行為者であるという哲学的図式を受け継いできたのである。そして、次に芸術、美、遊びといった他の種の活動について考えようとすると、私たちが受け継いできた理論では分析が難しいことがわかる。そのため、哲学者は芸術や遊び、楽しさ、ゲームなどを些細なものとして片づけてしまう傾向にある。しかし、それは芸術や遊びのせいではない。私たちが受け継いできた理論のせいなのだ。

(p. 477)

私の場合、行為論の文献を調べていて困り果てたのは、自分が扱おうとした現象、芸術制作における意図の一見奇妙なあり方がほとんど論じられていないことである。

しかし、まったく論じられていないというわけでもない。

調査の結果、私の問題意識に対して、「表現主義」の名で知られる、比較的マイナーなアプローチをとる議論が示唆的であることが判明した。

というのも、表現主義の支持者は、行為(行為者性)の理論の試金石として、しばしば芸術制作をもちだすからだ*3

ここで言う表現主義とは、行為と意図の関係を(因果関係ではなく)表現関係と見なす立場のことで、哲学史上の思想家として、ヘーゲルショーペンハウアーニーチェヴィトゲンシュタインなどに結びつけられることが多い。

表現主義によれば、行為と意図は一体である*4

それゆえ、意図を行為の原因として理解することはできない(意図が行為を引き起こすという言い方はできない)。

表現主義は常識に反しているように聞こえるが、近年の行為論では、因果説は必ずしも支持されておらず、代替案の模索が行われている。

たとえば、鈴木雄大は代替案の模索を行っている論者の一人だが、「表現主義」という言葉を用いていないものの、その議論は表現主義のそれに非常に近い。

行為と意図の関係は行為論の根本問題に違いないが、芸術制作などの創造的行為に注目することは、この問題を(多くの人にとって)新しい角度から捉えるための良い機会となる。

この意味で、今回の論文は行為論の根本問題への貢献が期待できるかもしれない。

現代現象学

エピグラフをつけることほどではないだろうが、「作者の意図の現象学」という副題を掲げることは勇気のいることだった。

というのも、私はあの現象学についてよく知らないからだ。

つまり、フッサールハイデガーサルトル、メルロ゠ポンティをはじめとする人々の思想である。

この意味での現象学については、何冊かの入門書を読んだことがあるだけで、いかつい専門用語が使われている手ごわい分野というイメージをもっており、はっきり言えば、敬遠していた*5

他方で、今回の論文での試みは、概念をいじったりすることではなく、一人称視点から現象を記述することであり、これを簡潔に言い表すための言葉として、「現象学」ほどふさわしい言葉もないように思われた。

自分が「現象学」をやっているなんて言っても平気なんだろうか、査読者に現象学者が就いて、こっぴどく怒られたりしないだろうか。

結果的に、この懸念はいくつかの知見のおかげで払拭された。

まず、哲学的伝統としての現象学と、哲学的方法としての現象学は区別可能だ。

私が「あの現象学」と呼んだのは前者、現象学的伝統にほかならない。

そして、「現象学」と掲げていながら、現象学的伝統の著作をほとんど参照していない英語文献(美学や行為論のもの)をいくつか目にしたことがあるが、これらはもっぱら後者、現象学的方法を用いている点で「現象学」なのである。

では、現象学的方法とはどのような方法なのか。

この点に関しては、やはり合意はないようだが、『現代現象学』が参考になった。

また、同書の五人の著者が各々の現象学観を披露した『フッサール研究』第16号の特集「現代現象学の批判的検討」も同様に参考になった。

特集論文を読んでわかるのは、五人の著者の現象学観は必ずしも一致しているわけではなく、少なからぬ違いもあるということであり、そして、私は八重樫徹のそれに魅力を感じた*6

八重樫は、『現代現象学』第1章の議論に呼応して、「現象学は経験から出発し経験にとどまる哲学である」と言う*7

そして、この点が重要だが、哲学は、それが経験にとどまることに成功している分だけ現象学的だと言え、現象学的であるか否かは程度問題であると八重樫は考える。

このように考えると、私の議論が徹頭徹尾経験にとどまったものになっているかはよくわからないが、かなりの程度経験にとどまっていると言えるだろうし、「作者の意図の現象学」と名乗ることに問題はないと思い至った次第である。

ただし、『現代現象学』の著者の一人、植村玄輝は「現代現象学の実践にとって古典的現象学の知識が事実上欠かせない」と考えており、この立場に従うと、何らかの理由で稀有な例外と認められないかぎり、今回の論文は現象学とはとても言えないだろう。

八重樫はこの種の立場に異を唱えているが、すでに論文が採択されたいまとなっては、現象学的伝統の古典に詳しい者が私のような問題意識をもった場合にどのような議論を展開するかの方が、私としては気になるところだ。

メタ哲学

芸術についての哲学や、科学についての哲学が存在するように、哲学についての哲学も存在し、これは「メタ哲学」と呼ばれる。

メタ哲学の中心に据えられる問いは、言うまでもなく〈哲学とは何か〉である。

この問いは、哲学の上位カテゴリーとして何を想定するかに応じて、可能な応答も変化してくる。

たとえば、哲学を学問として捉えた場合と、生き方として捉えた場合では、どのように応答すべきかは変わってくる。

そして、今回の論文と関わる哲学とは〈行為としての哲学〉であり、つまり、哲学することである*8

アカデミア、哲学カフェ、はてなブログなど、さまざまな場でさまざまな人が哲学しているが、哲学するとはどういう行為か、これが問題である。

たとえば、村山達也は自身の研究発表「ベルクソンの潜在性概念」について、「まず、ドゥルーズの潜在性解釈は間違いかも、という感触があった」というところから、発表原稿を仕上げるに至るまでのプロセスを分析している。

これは〈行為としての哲学〉についての哲学の試みと言ってよい。

また、山口尚と千葉雅也の対談における以下の一幕を見てみよう。

質疑応答も済ませたところで、イベントを締めくくるにあたって、司会は以下のような発言を行っている。

山口先生や千葉先生は、千葉先生の場合は小説も含まれますけれども、言葉を構築して、本当に言葉を選んで選んで、吟味して、組み立てて、ひとつのテクストを作り上げるという、職人的な面も強くお持ちの方々であられます。そうした職人的な面のことは、コントロールと呼ばないとしたら、何と呼べばよいだろうか、ということも、最初のお二人の対談の最後のほうで思ったりしました。

(p. 98)

文脈として、本イベントでは〈コントロール批判〉が一つのキーワードになっており、その点に関連して行われた発言だが、山口は以下のように応答している。

僕が本を書くときコントロールしていないのかという話は、それは大事だし、また考えてきます。本を書くとはどういうことか、ですね。それは宿題にします。

(pp. 98-99)

芸術制作や哲学的執筆において、コントロールというものをどう考えるべきか。

これはまさしく今回の論文で論じている問題である。

 

哲学者は「放浪する者」でありながら、「迷っているとは限らない」。

 

*1:訳文の出典は『指輪物語』の邦訳版ではなくこちら

*2:なお、トールキンとR・G・コリングウッドは、オックスフォード大学において同僚であった。二人の交流を跡づける資料はほとんどないが、おとぎ話への関心を共有していたほか、考古学的著作『ローマン・ブリテンイングランド開拓地』において、コリングウッドトールキンに謝辞を捧げていることはたしかである。

*3:ただし、先行研究の多くは芸術制作についてディテールに富んだ記述を行っておらず、表現主義の批判的検討を困難にしている(その結果、単に無視されがちである)と私は見ている。

*4:これは、芸術作品における形式と内容の不可分性を主張する、美学上の表現主義を彷彿とさせる。

*5:今年に入ってからは、メルロ゠ポンティの表現概念に関心をもち、二次文献を多少読むようになった(が、やはり難しい)。

*6:その他、「あらゆる美学は現象学に関わる」という森功次の主張や、トピックベースの現象学の実例として『フェミニスト現象学』に勇気づけられた。

*7:この類の定式化には曖昧さが残ると認めつつ、これ以上精密な定式化を試みる必要性には懐疑的なようだ。

*8:より狭いクラスとして、〈自己表現としての哲学〉にも関わっているが、この点はまたの機会に探究したい。

音楽は何をもって模倣芸術と見なされたか:古代と十八世紀

美術作家である菊池遼さんが以下のようなツイートをしていた。

僕も芸術の模倣説、つまり、諸芸術を束ねるものとして模倣をもちだす理論にはじめて触れたとき、同じような疑問を抱いた。

芸術の模倣説は音楽をどう説明するのか。

幸いにも、どこかで関連する記述に出会ったことがあり、菊池さんに以下のリプライを送った。

模倣説が音楽を説明する一つの理屈として、菊池さんには理解していただけたが、僕のツイートは近代美学について触れておらず、実際、何か言えるほどよく知らなかった。

そこで、改めて調べてみることにした。

今回の記事は、そこでわかったことのメモ書きである。

 

参考文献となったのは、スタンフォード哲学百科事典の以下の記事。

今回の疑問に関わるのは1.3節と3.4節であり、それぞれ古代と十八世紀の音楽観を取り上げている。

記事では、多くの思想家が、芸術の模倣説にコミットしているかどうかにかかわらず、模倣を行うものとして音楽を捉えていたことが記されている。

ここでは、何人かの思想家の見解を抜き出し、簡単に紹介しよう。

古代

古代ギリシアでは、音楽は感情を模倣する能力をもつとされ、その社会的価値が一つの論点となっていた。

音楽は感情を模倣すると捉えられていたわけだが、模倣がいかに行われるかに関して、論者間で相違もあったようだ。

プラトンの場合、音楽は感情的身振り、とりわけ声色を模倣していると考える。

たとえば、『国家』では、ドリア旋法とフリギア旋法に触れ、「これらは節度と勇気を備えた者の猛烈ないし自発的な声のトーンを模倣する」と語っている。

ここでは声色に言及しているが、より広く、音楽が感情に関連する身体動作を模倣していると、少なくとも一度は述べている。

アリストテレスの場合、音楽は、ただ感情的身振りを模倣する視覚芸術とは違い、感情そのものを模倣することができると考える。

アリストテレスの見解に対する一つの有力な解釈は、彼は音楽が聴き手に対して感情を喚起する能力をもつと見なしており、この能力が、感情そのものを模倣する能力を最終的に説明する、というものである。

二人の見解の違いは、(声楽と対比される)器楽に対する二人の態度の違いを説明するかもしれない。

プラトンは器楽にほとんど価値を認めていないが、それは、器楽が勇気や節度をうまく模倣することができないと見なしていたからだと思われる。

他方で、アリストテレスは器楽に対して批判的ではなく、器楽が識別可能な感情を喚起することができるとはっきり認めている。

十八世紀

十八世紀に入ると、器楽の段階的な発展が音楽理論に大きな影響を及ぼしていた。

器楽の旋律的、和声的な複雑さが増すにつれ、それが話し声を模倣していると主張することは妥当でなくなり、それにもかかわらず、その複雑さは、感情を表現し、喚起する音楽の力を高めていたのだ。

結果として、音楽を模倣芸術とする見解は徐々に否定されていったが、ある時期まで、この見解はたしかに支持されていた。

芸術の模倣説の支持者として有名なシャルル・バトゥーは、音楽が感情的身振りを模倣すると考える(1746年)。

彼は模倣的でない音楽の存在を認めていたものの、「心を退屈させる」として、それを価値あるものとは認めない。

バトゥーに先立って、ジャンバティスト・デュボスもまた、音楽を模倣芸術と捉えている(1719年)。

彼によれば、声楽は熱弁を模倣するものであり、器楽は自然音を模倣するものである。

デュボスは、音楽が感覚を魅了することは認めているが、音楽に対する唯一の価値ある反応は、模倣としての鑑賞から得られると考える。

1770年代以降になると、音楽を模倣芸術とする見解はますます通用しなくなり、音楽が感情的身振りを模倣することで感情を表現するという考え方も攻撃されるようになる。

ミッシェルポールギィ・ド・シャバノンは、この新しい潮流のもっとも代表的かつ過激的な思想家である(彼は作曲家でもある)。

シャバノンは、音楽による感情表現が声色の模倣に依存するという考え方を三つの点で批判している(1779年)。

第一に、子供や、西洋音楽の伝統に馴染みのない人々は、音楽に感情的に反応するが、音楽による模倣を理解することができない。

第二に、模倣は表現にとって不十分であり、たとえば、笑い声は愉快さに関連するが、笑い声を音楽で模倣しても、愉快な音楽にはならない。

第三に、「私たちの情念の多くは、それらに関連する特定の叫びをもたないが、音楽はそれらを表現することができる」。

このような次第で、音楽理論では、表現概念が前景化するとともに、模倣概念が後景化していったようだ。

最後に、興味深い見解を採っている二人の思想家を取り上げよう。

フランシス・ハッチソンは、音楽と模倣の結びつきについて語っているが、その見解はやや複雑である(1725年)。

彼は本来の美と関係の美を区別しており、前者は比較とは独立に判断されるが、後者は模倣に依存するとしている。

音楽は本来の美の一例だが、その旋律的要素が熱弁に類似しているために、比較の美も可能にする。

そして、この類似性を認識するとき、「ある種の共感ないし伝染によって」、聴き手の心に感情が沸き上がるとハッチソンは考える。

これは、音楽が声色を模倣することで感情を表現しつつ、同時に聴き手に対してそれを喚起すると見なす立場として興味深い。

経済学者としても知られるアダム・スミスは、声楽と器楽を峻別しており、前者は模倣芸術だが、後者はそうではないと考える(1795年)。

彼は、媒体と模倣される対象との格差が大きければ大きいほど、模倣芸術はより多くの喜びをもたらすとする。

そして、声楽は熱弁にわずかに似ているだけかもしれないが、だからこそ、うまく模倣したときには私たちを喜ばせる。

他方で、器楽は、テキストによって促されないかぎり、私たちがそこに何かを認識することはほとんどできないため、いかなる対象もうまく模倣することができない。

しかし、スミスは自然景観が何も模倣することなく陰鬱でありうることに注意を促し、同じ仕方で音楽も陰鬱でありうると主張する。

景観や音楽がもつ「陰鬱さ」は、私たちを陰鬱にさせる能力と見なされる。

ここでも、模倣と表現は別々の道を行く。

「自己知の何が特別か:自己知の哲学入門②」(カシーム・カサーム)

 

前回、カサームは自己知の哲学を案内するにあたって、自己知に対する一般的な関心と哲学者の関心にはギャップがあると指摘し、この点を説明するために、自己知を二種類(些細な自己知と実質的な自己知)に区別した。

哲学者は些細な自己知を特別なものと見なしているが、それの何が特別なのか、という点から議論は進んでいく。

今回扱う範囲は、自己知の哲学の標準的な議論を概観するうえで役に立つだろう。

 

なお、今回訳文に設けたリンクや脚注はすべて訳者によるものである。

以下、訳文。

自己知の特別さ

私たちを取り囲む世界に関する信念は誤りうる(fallible)。雨が降っていないのに、降っていると信じてしまうかもしれない。靴下を履いていないのに、履いていると信じてしまうかもしれない。このような事柄について誤ることはほとんどないように思われるかもしれないが、これらの信念はエラーを寄せつけないものではない。しかし、次に、あなたは靴下を履いているかという質問の代わりに、自分は靴下を履いているとあなたは信じているかという質問を考えてみよう。自分は靴下を履いているというあなたの信念は誤っているかもしれないが、自分は靴下を履いていると信じているというあなたの信念は誤りえないと、多くの哲学者は考えている。つまり、あなたは自分が何を信じているかについて誤りえないのだ。同じことが、他の心の状態にも言える。たとえば、頭痛がするとあなたが思ったとしよう。それについて、あなたが間違っていることなどありえるだろうか?もちろん、そんなことはない。なぜ頭が痛いのかについて間違うことはあるが、頭が痛いかどうかについて間違うことはありえないのだ。このような心の状態についての知識は無謬(infallible)である、と言い換えてもよい。

現在では、些細な自己知を特別なものと見なす哲学者でも、それが無謬であるという考えには懐疑的なことが多い。かれらが言うには、自分の心の状態に関して本当に間違ってしまうということは可能だが、そのような間違いは異常であり、また、自分が信じ、欲し、感じていることに関する私たちの信念は間違っていないと推定される。言い換えれば、厳密には無謬でないにせよ、ある種の自己知は権威をもつ、ということになる。

さらに、私が「些細な」自己知と呼んでいるものは、通常、行動証拠やその他の証拠に基づかない点で特別だと主張されることも多い。自分の行動を観察しなくても、自分は靴下を履いていると信じていることや、今夜映画館に行きたいことはわかる。これらは推論によるものではなく、あなたが「直接(immediately)」知っていることなのだ。通常、自分は靴下を履いていると信じていることを算出する必要はないし、証拠も関わってこない。ある種の自己知がもつこの直接性は、自己知が特別であることを示すもう一つの側面である——多くの哲学者はそう考えてきた。

もし些細な自己知がこれらの点のどれか、またはすべてにおいて特別だとすれば、それは実質的な自己知とも、自分以外の心についての知識とも、著しく異なることになる。たとえば、自分の性格特性についての知識を実質的自己知の一例として、優しさがそのような特性の一つであるとしよう。自分が優しい人間であるかどうかについて、あなたは無謬だろうか?もちろん、そうではない。自分は優しいと心から信じていても、それは間違っているかもしれない。自分の性格特性に関するあなたの信念は間違っていないと推定されるという意味で、あなたは自分の性格特性に関して権威をもつだろうか?もちろん、そうではない。私たちは誰でも、自分のことを良く思いたいもので、このことは、自分が本当はどのような人間なのかを私たちは知っているという推定を脅かす。さらに、自分の性格を知るには、行動証拠を含め、証拠が必要であり、このことは、自分の性格についての知識が直接性をもって得られるものでもないことを意味する。

自分以外の心についての知識も同様である。他者が何を考え、何を感じているかを知るためには証拠(通常は行動証拠)が必要であり、それらの事柄に関するあなたの信念は、自己知が権威的であるようには、無謬でもなければ権威的でもない。つまり、Paul Boghossianが言うところの、「自分の考えを知る方法と、他者の考えを知る方法との深い非対称性」が存在している。自己知の哲学的説明は、必ずこの非対称性を認め、説明しなければならない。

以上、些細な自己知に対する哲学的関心について、その重要性よりもむしろ、それについて想定される特別さに基づいて説明してきた。これは、些細な自己知に注目する哲学者が、些細な自己知を重要でないと考えているということではない。たとえば、Sydney Shoemakerは、私が「些細な」自己知と呼ぶものが合理性にとって必要であると論じている。実際にそうであるかどうかは単純な問題ではなく、合理性の本性に関する非常に難しい問題に左右される。自己知が合理性の前提条件であるというテーゼは、依然として大きな論争を呼んでいると言っておけば十分だろう。

自己知はいかにして可能か?

あなたがこれまでの議論を受け入れ、些細な自己知がその特別さゆえに哲学的に興味深いものであるという考えに納得したとしよう。そうすると、次のような疑問が自然に生じる。権威的かつ直接的な自己知はいかにして可能か?また、そのような自己知の限界はどのようなもので、何がその権威性と直接性を説明するか?これらの質問のうち、少なくとも哲学者にとっては、最初のものが喫緊の課題であるように思われる。なぜなら、一部の自己知が権威的かつ直接的である(と想定される)ようには、私たちの知識の大半は権威的でも直接的でもないからだ。したがって、ここには説明すべきことがある。ある種の自己知が特別であることを指摘するだけでは十分ではない。私たちは、この種の自己知がいかにして可能かを理解したいのだ。

一つの見通しは、権威的かつ直接的な自己知がいかにして可能かを、その起源を特定することで、つまり、私たちがいかにしてそれを得るかを解明することで説明することだろう。一つの提案は、私たちは内観(introspection)によって自分の心を知るというものであり、ここで、内観は内的知覚の一形式と見なされる。これは自己知の知覚モデルだ。もう一つの可能性は、私たちは推論ないし推理によって自分の心を知るというものである。これは自己知の推論モデルだ。これらのモデルはともに多くのバリエーションをもち、相互に排他的ではない。もし知覚が推論をともなうならば、自己知が知覚的であると言うことは、それが推論的であると言うことと両立する。しかし、現在の目的のために、これらのモデルを別々に考えてみよう。

自己知の知覚モデル

自己知の知覚モデルは、17世紀にはJohn Lockeが支持し、18世紀にはImmanuel Kantが複雑化を施しながらも支持したものである。20世紀には、オーストラリアの哲学者D. M. Armstrongが、1968年に出版された『心の唯物論』において、知覚モデルの著名な提唱者となった。通常、哲学者が知覚について語るとき、かれらは感覚知覚、つまり、見る、聞く、触る、味わう、嗅ぐことを意味している。この説明において、内観とは一種の内なる視覚であり、通常「心の目」と呼ばれるもので見ることである。あなたが自分の信念、欲求、感覚などを知るのは、内観によって、言い換えれば、心の目で自分がそれらをもっていることを覗き見ることによってである。

このモデルは自己知の直接性を説明するのに適しているが、その権威性を説明するのにはあまり適していない。もし自分が靴下を履いていることを、あなたが目で見ることによって知るのであれば、あなたの知識は「推論的」ではなく「直接的」だと(議論の余地はあるが)考えられるかもしれない。それゆえ、もし自分が靴下を履いていると信じていること、頭が痛いことを「知覚」できれば、それによって得られる自己知(自分が靴下を履いていると信じていることや頭が痛いことについての知識)も、「直接的」だと言えよう。

知覚的知識が権威をもつと考えないかぎり、知覚モデルは自己知の権威性を説明するのにあまり適していない。知覚モデルには他にも多くの反論があるが、それらはすべて、私たちが自分の心を知るための手段は、知覚とは根本的に異なるという考えに基づいている。内観は知覚とはまったくの別物で、私たち自身の心の状態は、靴下のようなものが知覚されるようには知覚されない、と反論は進む。Sydney Shoemakerは、1996年に出版された『一人称視点およびその他の論考』において、知覚モデルに対する近年の有力な批判者となっている。

自己知の推論モデル

自己知の推論モデルによれば、私たちは推論を通して自分の信念、欲求、感覚を知る。何からの推論か?私たちが利用できるさまざまなタイプの証拠からだ。哲学者のGilbert Ryleと心理学者のDarryl Bemはともに、私たちは行動証拠に頼っていると主張している。Ryleは、その名高い『心の概念』(1949年)において、この見解を擁護している。この見解は、自分がどう感じているか、何を考えているかを知るために自分の行動を観察する必要はないということを根拠に、自己知の哲学者から広く非難されてきた。しかし、心理学的証拠を含む他の種の証拠からの推論によって自己知が獲得される可能性はなおも残されている。これは、『人間のための自己知』の第11章と第12章において擁護されている見解である。

推論モデルの変種として、自己知は「透明法(Transparency Method)」と呼ばれるものを利用することで獲得されるという見解もある。この見解は、乱暴に言えば、P(自分が靴下を履いていること)を信じているかどうかを確認する方法は、その信念をもつことが合理的であるかどうかを自分に問うことであるとする。この問いに対する答えが「はい」であれば、自分はPを信じていると結論づけることができる。この結論を導くとき、あなたは〈自分が何を信じているかは、自分が何を合理的に信じるべきかによって決定される〉という前提に立っている。これはときに自己知の合理主義的構想と呼ばれるもので、その主唱者はハーバード大学の哲学者、Richard Moranである。彼の著作『権威と疎外』(2001年)は一読の価値がある。Moranの批判者では、『表現と内なるもの』(2003年)を著したDavid Finkelsteinが注目に値する。

推論モデルは、自己知が通常は直接的であるという考えと対立する。推論的知識それ自体に特別なものはなく、自分以外の心についての知識も推論的であるため、推論モデルの支持者は自己知の特別さに対して懐疑的である傾向にある。かれらは自己知が他者の心についての知識とは種類が異なることに疑いをもっているのだ。ただし、Richard Moranは、自身の合理主義的アプローチが自己知の権威性と直接性を説明できると(私の考えでは誤って)主張している。この問題については、『人間のための自己知』の第9章でより詳しく論じている。合理主義者が自らを推論主義者とは見なしていない点は補足に値するが、透明法が非推論的な自己知をいかにして提供できるかを理解するのは難しい。推論的知識と非推論的知識の区別が非常に曖昧であることもあり、これは依然として厄介な問題である。

合理主義の問題点

合理主義をより複雑にしているのは、人間の合理性が不完全であり、ゆえに私たちの信念、欲求、恐れなどが合理的にあるべき姿をしている保証はない、という点である。たとえば、午後にジムに行きたいかという問いについて考えよう。あなたは医者からもっと運動する必要があると言われているため、ジムに行くことは合理性の点であなたが欲するべきことであるかもしれない。しかし、残念ながら、午後にジムに行くことは、実際にはあなたが一番やりたくないことかもしれない。これが正しければ、合理性の点でジムに行くことを欲するべきかどうかを自問することは、ジムに行きたいかどうかを把握するための間違った方法であるように思われる。これはちょうど、合理性の点で浴槽にいるクモを恐れるべきかどうかを自問することが、クモを恐れているかどうかを確認するための間違った方法であるのと同じである。あなたはクモを恐れるべき理由などないことに完全に気づいているが、なおもクモを恐れているかもしれない。

透明法に一番向いているケースは、自分の信念についての知識だ。もしあなたが、自分は靴下を履いていると(あらゆる証拠がそう示しているために)合理的に見て信じるべきだと認識しているならば、自分は靴下を履いていると信じていると結論づけてもおそらく問題はない。そうだとしても、圧倒的に不利な証拠や反証に直面しているにもかかわらず、あなたが自分にとって重要な特定の信念を保持し続ける可能性を排除することはできない。心理学者が「信念固執(belief perseverance)」と呼ぶこの現象は、自分が信じるべきものは何かについて反省することで、自分の信念を知ることができるという考えに問題を引き起こす。

ここでのポイントは、誤りうる人間である私たちは、たとえ何が合理的かを自分で判断するとしても、考え、欲し、恐れることが合理的であることをつねに考え、欲し、恐れているとはかぎらない、ということだ。合理主義のさらなる問題は、自分の態度が合理性の点で何であるべきかを知るよりも、自分の態度が何であるかを知る方がたいてい容易であるという点にある。合理主義はせいぜい、その信念やその他の態度がつねに合理的にあるべき姿をしている、神話上の合理的哲学人(homo philosophicus)のための自己知の説明である*1。合理主義は、人間のための自己知の説明としてはあまり良いものではないように見える。この点については、『人間のための自己知』で事細かに説明している。

 

【つづく】

*1:「合理的哲学人」の元ネタは「合理的経済人(homo economicus)」のようだ。

「些細な自己知と実質的な自己知:自己知の哲学入門①」(カシーム・カサーム)

自己知(self-knowledge)の哲学という分野がある。

自己知とは、典型的には、自分の心的状態(信念や欲求など)についての知識のことだ。

今回は、自己知の哲学に従事しているカシーム・カサーム(Quassim Casssam)が執筆した「自己知へのビギナーズガイド」を訳出した。

カサームには『人間のための自己知』という著作があり、本ビギナーズガイドの背景をなしている。

本書の序文は、「自己知について書くことの不都合な点の一つは、哲学に馴染みのない者に自分のことを説明しなければならないことである」という一文で始まる。

どういうことだろうか。

カサームは以下のように言う。

実際、それはまさしく、哲学者が関心をもつだろうと非哲学者が期待する種の主題である。しかし、今日の哲学者が「自己知」で何を意味しているかを説明しようとすると、失望が始まる。

(p. vii)

専門家の実践とそれに対する非専門家の期待のギャップはよくあるが、主題に応じて、ギャップの内実や出自は異なるだろう。

カサームは本ビギナーズガイドにおいて、自己知の哲学に見られるこの種のギャップが具体的にどのようなものか、何に由来するか、なぜ埋められなければならないかを説明している。

 

なお、今回は全文を数回に分けて訳出する。

原文がわりと長いため、一気に出そうとすると、訳す方も読む方も大変だからだ。

人名は基本的に原文の表記をそのまま用いている。

強調を示す斜体は太字に置き換えた。

以下、訳文。

自己知へのビギナーズガイド

イントロダクション

このビギナーズガイドで扱うのは自己知の哲学だ。自己知について考えたり書いたりしているのは哲学者だけではない。心理学者も多くのことを語っており、自己知に対する心理学的アプローチについては後ほど論じる。また、Proustの『失われた時を求めて』やJane Austenの『エマ』などの偉大な文学作品を読むことで、自己知の本性や源泉に関する洞察を得ることもできる。心理学的、文学的アプローチと比較すると、自己知の哲学はドライで難解だ。その理由の一つは、哲学者が、私が「実質的(substantial)」な自己知と呼ぶものとは異なる、比較的些細(trivial)な自己知に集中する傾向にあるためである。本稿では、なぜ些細な自己知が、私たちが通常「自己知」と呼ぶものでもないにもかかわらず、哲学者にとって非常に興味深いものに映るのかについて説明する。実質的な自己知は、日常的な意味での自己知にはるかに近く、哲学者はこの意味での自己知にもっと注意を払うべきだと提案したい。

本稿で取り上げるところの自己知の哲学は、東洋哲学ではなく西洋哲学だ。自己知はインド哲学中国哲学イスラム哲学の主要なトピックだが、私自身の専門は、西洋の「分析的」伝統と呼ばれるものである。なお、本稿に出てくる多くの見解は、2014年にオックスフォード大学出版局より出版された私の著作『人間のための自己知』でより詳細に説明されている。

はじめよう

自己知とは何か?この質問に対する自然で一般的な答えの一つは、「本当の自分(true self)」とときに呼ばれるものについての知識だ、というものである。これは、私が日常的な意味での自己知と呼んでいるものだ。このような考え方において、本当の自分とは、本当の「あなた(you)」であり、あなたの本当の性格、価値観、欲求、情動、信念で構成されている。他者、またはあなた自身が、あなたはこうだと信じていることとは区別される、あなたの本当のあり方のことである。本当の自分とは、他者や自分自身に見えているだけの自分なのではなく、あるがままの自分なのだ。自己知の探究とは、本当の自分を探究することだと考えてもよいだろう。

もちろん、このような考え方は、「本当の自分」なるものが存在することを前提しており、これに疑問をもつ人もいる。この問題はひとまず措いて、自己知に関する通常の考え方のもう一つの特徴は、自己知を獲得するのは容易ではないと見なされている点である。本当の自分を知るということは、真の「認知的(cognitive)」ないし知的達成であり、時間と努力を要する。そして、努力を要するものとして自己知を考えると、自然に次のような疑問が湧いてくる。自己知の意味や価値は何か?自己知をもっているとどんないいことがあるのか、それをもたないと何を失うのか?

自己知がもつに値するということは、しばしば当然のように受け入れられている。自己知に価値があるのは、大雑把に言えば、自己知がないよりも、あった方が幸せになれるからだと考える人もいる。しかし、それは必ずしも明らかではない。もしかすると、知らない方が幸せでいられる、自分自身に関する真実があるかもしれない。その場合、自己知の価値を説明するには、別のところに目を向ける必要があるかもしれない。Socratesが示唆した、有意味な生を送るためには自己知が必要だという考えや、それに関連して、「自分らしく(authentically)」、つまり、自分自身に、本当の自分に誠実に生きるためには自己知が必要だという考えが思い浮かぶかもしれない。自己知の価値に対するこのような説明が正しいかどうかは、自己知の哲学者にとっての素晴らしい問いのように聞こえる。

自己知の哲学的描像

驚かれるかもしれないが、これまで私が記述してきたような問題は、自己知についての(西洋)哲学的説明の焦点にはなっていない。少なくとも17世紀以降、その焦点は別のものに向けられてきた。たとえば、あなたは自分が靴下を履いていると信じていて、自分がそう信じていることを知っているとしよう。自分が靴下を履いているという信念は、あなたの現在の「心の状態(states of mind)」の一つであり、多くの哲学者は、自分が靴下を履いていると信じていることを知っていることが「自己知」の一形式であると言いたいだろう。同じことが、頭痛がするとか、今夜映画を見に行きたいということを知ることにも言える。これらはすべて、哲学的な意味での「自己知」の例だ。靴下の例では、自分が靴下を履いていることを知っているかどうかが問題なのではなく、自分が靴下を履いていると信じていることを知っているかどうか、どのように知っているかが問題になっていることに注意しよう。

自己知についてのこの考え方は、あなたにとって意外なものかもしれない。まず、自分が靴下を履いていると信じていることを知ることが、本当の自分、本当のあなたについて知ることであるとは考えにくい。あなたが「より深い」信念をもち、それが本当のあなたを構成することは間違いないが、自分は靴下を履いているという信念は確実にそうではない。私が最初に記述した自己知とは異なり、自分が靴下を履いていると信じていること、頭痛がすること、今夜映画を見たいことについての知識は、非常に退屈で些細な部類の自己知であるように見える。見たところ、このような些細な自己知を獲得することは難しくなく、大した認知的達成を示すわけでもない。また、特別に有用で価値があるとも思えない。自分が靴下を履いていると信じていることを知ることが、いったい何の役に立つというのだろうか?

このような例についてもう少し考えてみると、「些細」な自己知と「実質的」な自己知を区別するのは自然なことである。この区別については、『人間のための自己知』の第3章で詳しく説明しているが、そこでは、両者の違いは程度の差であり、ある自己知が「些細」か「実質的」かには、多くの考慮事項が関わっていると示唆している。直観的には、自分が靴下を履いていると信じていることや、映画を見たいことを知ることは、スペクトルのより些細な端に位置する例である。ここで示唆しているのは、自分の信念や欲求についての知識がつねに些細だということではなく、しばしば些細だということだ。これに対して、実質的な自己知には、自分の性格、価値観、能力、情動についての知識が含まれる。たとえば、自分が優しい人間であること、今の仕事に向いていないこと、兄弟に深い恨みを抱いていることの知識がこれに当てはまるかもしれない。実質的な自己知とは、「本当の」自分についての知識なのだと思うかもしれないが、そう考える必要はない。実質的な自己知に関する重要な点は、それが真の認知的達成を示すものであり、価値をもつと見なされるための明白な言い分を(それが正しいかどうかは別として)有するということである。

この区別を用いて言えば、近年の哲学的議論の多くは、実質的な自己知よりもむしろ些細な自己知に関して行われてきた。なぜだろうか?それは、17世紀のDescartes以来、多くの哲学者が、些細な自己知の特異性特別さに心を奪われてきたからだ。かれらは、その特別さが、些細な自己知を実質的な自己知や他の種の知識から区別すると考える。このアプローチでは、このような「特別」な自己知がいかにして可能かを説明することが哲学的課題となる。この観点からすると、実質的な自己知は、依然として人間にとって重要かもしれないが、些細な自己知のような特別さがないため、哲学的にはそれほど興味深いわけではない。むしろ、自己とは何の関係もないような、他の知識にはるかに近い。

そこで、次の問題は、些細な自己知が特別だというのは本当なのかどうかということだ。仮に本当だったとしても、それは実質的な自己知をないがしろにする言い訳にはならない。実質的な自己知が人間としての私たちに対してもつ重要性を考えれば、自己知の哲学者はそれについて実際よりもはるかに多くのことを語ってくれるだろうと、あなたは期待したことだろう。『人間のための自己知』において、私は、哲学が些細な自己知の特別さを過大評価し、実質的な自己知の哲学的意義を過小評価する傾向にあると論じている。この点については、また後ほど立ち返ろう。まず、ある種の自己知について想定されている特別さが何なのかをはっきりさせておく必要がある。

 

【つづく】