一橋図書館を育ててみた(後編)
ある人は言った。
大学図書館は育てるものだ。
忙しい時期が続いて更新が大幅に遅れたが、中編に引き続き、一橋図書館の育成記録である。
一橋図書館に入れた本(2024年度)
哲学
- 女の子のための西洋哲学入門:思考する人生へ
- 懐疑論:パラドクスから生き方へ
- 味わいの現象学:知覚経験のマルチモダリティ
- ヘーゲル(再)入門
- ネガティヴ・ケイパビリティで生きる:答えを急がず立ち止まる力
『女の子のための西洋哲学入門』は、「自己知」や「芸術」といった話題がどのように論じられているかが気になって購入申し込みした。
目次を見てわかるように、幅広い話題が扱われており、「女の子」である人はもちろん、そうでない人も、チェックしておいて損はない一冊である。
『懐疑論:パラドクスから生き方へ』は、デビット・ライスさんの魅力的な紹介記事で気になって読んだが、期待どおり、懐疑論的傾向の弱い自分が苦もなく読める良い本であった。
『ヘーゲル(再)入門』については、過去に行為論の文脈で書いた拙論で、著者である川瀬和也さんの論文を参照したことがある。
本書にもヘーゲルの行為論を扱う章が存在し、分析系で主流の行為論とは性格の異なるその内容はやはり興味深かった(もっと読みたい)。
美学
- 明治の芸術論争:アートワールド維新
- あじわいの構造:感性化時代の美学
- 美学の練習
『明治の芸術論争』は学部時代の指導教員である西村清和先生の新刊。
多くの著作で日本の芸術や美学を扱う章を設けてきた論者だが、近年はとりわけ盛んにその方向で研究を進めているようだ。
『あじわいの構造』は学部時代に読み、印象に残っている一冊だが、驚くべきことに、一橋図書館に収蔵されていないことがわかり、取り急ぎ購入申し込みした。
人工知能
- 人工知能の哲学入門
- 創るためのAI:機械と創造性のはてしない物語
AIアートに関心をもったことから、その研究に向けての勉強用の二冊。
主要な芸術活動として、芸術制作と芸術鑑賞を挙げることができるが、分析美学では、芸術鑑賞が盛んに論じられる一方で、芸術制作に関する議論の蓄積は比較的少ない。
この傾向を裏づけるように、『分析美学入門』と『美学入門』には芸術制作を扱う章が設けられていない(ただし、洋書には芸術制作を扱う入門書もある:一例)。
AIアートの台頭は、この傾向に変化をもたらしてくれるのではないかと、創造性を研究テーマの一つに掲げている自分は期待している。
文学
- フェルナンド・ペソア伝:異名者たちの迷路
ペソアとウィリアムズはどちらも美学の文献で出会った文学者だ。
『ペソア伝』の方はプロローグで自分が研究している現象について言及があり、思わぬ収穫となった。
『ストーナー』はニック・リグルの論文でその一節が引用されており、自分の研究とも深く関わっているように思えたため、購入申し込みした(どうやら、文学作品も読み物扱いになるようで、研究用である旨をメールで図書館に伝えてようやく承認された)。
「美しい小説」という謳い文句が真摯なものに感じられる本作だが、訳文もまた非常に美しい。
リグルが引く一節の邦訳版をここに引いて結びとしよう。それは、主人公ストーナーが自宅の改装に取り組む場面である。
そうやって書斎の改造に取り組み、それが少しずつ形になっていくにつれて、もう何年も前から、自分の中の自分でも知らない一郭に、ひとつの心象風景が恥ずべき秘密のごとくしまい込まれていたことに気づいた。表向き、それはひとつの場所の風景だが、じつは自分自身の風景だった。つまり、ストーナーは書斎を整えながら、そうすることで自分自身の輪郭を定めようとしていたのだ。木箱用の古い板材に紙やすりをかけると、表面の粗い凹凸が消え、付着物の灰色の薄片が剝がれて、本来の木の面が現われ、やがて豊かで細やかな肌理が浮かび上がる。同じように、家具を修理し、それを部屋に配置することで、少しずつ自分自身の形が明らかになり、自分自身が一種の秩序を獲得して、自分自身であることが可能になってくる。
(pp. 117-118)
一橋図書館を育ててみた(中編)
ある人は言った。
大学図書館は育てるものだ。
というわけで、前編に引き続き、一橋図書館の育成記録である。
一橋図書館に入れた本(2023年度)
美学
- バウムガルテンの美学:図像と認識の修辞学
- 芸術の中動態:受容/制作の基層
- 芸術と共在の中動態:作品をめぐる自他関係とシステムの基層
- 作ることの哲学:科学技術時代のポイエーシス
- メルロ=ポンティの表現論:言語と絵画について
いずれもコリングウッド美学とそれなりに関わりのある本。
というのも、コリングウッドが美学者として関心を抱いていたのは、表現活動を通じて感性的認識が精緻化される現象であると言ってよいからだ。
その点で、あまり知られていないが、彼はメルロ=ポンティに近い位置にいる。
中動態というアイデアについては、何か興味深い印象を抱きながら、正直いまだにその魅力を掴み切れていない。
行為論の研究者に意見を尋ねてみたいところだ。
哲学
- ハイデガー:世界内存在を生きる
- 哲学的スキルを磨く知的思考術
- 人生の意味の哲学入門
『ハイデガー』は『存在と時間』の懇切丁寧な入門書だが、個人的には、ハイデガーの難解な言葉遣いがある種の概念工学の産物であると読める第一章が興味深かった。
『哲学的スキルを磨く知的思考術』は、致命的に不適切な邦題がついているが、実態は自伝を織り交ぜた哲学的エッセイであり、人生で学び、考え続けることの意義を問うている。
『人生の意味の哲学入門』は、アカデミックな方法では論じづらいトピックに対して、哲学者たちが採るアプローチの多様さが一つの読みどころになっている。
芸術
- エミリ・ディキンスンを理詰めで読む:新たな詩人像をもとめて
- 音楽の方法誌:練習場面のエスノメソドロジー
- 庭のかたちが生まれるとき:庭園の詩学と庭師の知恵
『エミリ・ディキンスンを理詰めで読む』というタイトルには面食らうが、いざ読んでみると、作品の細部を疎かにせず、何が言えて何が言えないかを丁寧に(理詰めで!)検討しており、たいへんおもしろく読んだ。
残り二冊は時間の都合でほとんど読めずに返却したため、いつか再読したい。
心理学
- マインドワンダリング:さまよう心が育む創造性
「マインドワンダリング」という言葉は、典型的には、目下の課題とは無関係な思考が展開される事態を指す。
たとえば、講義を受けているときに今日の晩ご飯のことを考えてしまうようなケースがそれに当たる。
心の哲学の文献でこの言葉をときおり見かけて気になっていた時期に、ちょうど本書が発売されたため、購入申し込みした。
哲学の文脈では、意図的なマインドワンダリングは可能かが一つの争点となっている。
そして、この論争では、シュルレアリスムの芸術家たちが採っていた方法こそ意図的なマインドワンダリングにほかならないという主張が見られ、美学者として非常に興味をそそられる。
一橋図書館を育ててみた(前編)
ある人は言った。
大学図書館は育てるものだ。
僕が現在所属している一橋大学をはじめ、多くの大学図書館では、学生が図書購入申し込みを行うことができる。
もしあなたが大学生なら、そうして図書館に本を入れることで、図書館を育てることができるだろう。
図書館にどのような本が収蔵されているかは大学ごとに異なる。
一橋大学の場合、人文系の書籍は比較的少ない(人文系の学部が存在しないからだ)。
そこで、人文系の本を図書館に入れることで、その偏りを小さくし、同輩や後輩の役に立つことができる。
その意味で、図書館を育てることは共同体を育てることに他ならない。
というわけで、自分の研究に加えて、自分が属する共同体への貢献にもなると思って、積極的に育てていきたいところだ。
今回は、自分が博士課程のうちに図書館に入れた本をまとめ、図書館をどう育てたかを振り返ってみたい。
これまで三年間図書購入申し込みしてきたため、記事も三編に分けている。
この記事は前編であり、2022年度を対象としている。
なお、一橋大学では、年度末の二か月間(まさに執筆時の今!)は購入申し込みができない。注意されたし。
購入申し込みの方針
おそらく標準的なものだが、一応購入申し込みの方針を記しておこう。
基本的に、自分が購入申し込みする本は研究にある程度関わるか、関わりそうな内容のものが多い。
研究に密接に関わる本は自分で買うことが多いが、電子書籍派のため、電子書籍のない本は図書館に買わせることもある(余談だが、僕は紙の本を読むのがかなり苦手だ)。
知的好奇心から、研究にあまり関わらない本でも購入申し込みする場合があるが、用意されている予算には限りがあるため、やや遠慮がちになる。
一橋図書館に入れた本(2022年度)
文学
- 【ミラー版】エミリ・ディキンスン詩集:芸術家を魅了した50篇 <対訳と解説>
- エミリ・ディキンスン:アメジストの記憶
- 空よりも広く:エミリー・ディキンスンの詩に癒やされた人々
- 小説のフィクショナリティ:理論で読み直す日本の文学
僕は文学一般に明るくないが、ディキンスンは明確に好きと言える珍しい詩人の一人である。
よくあることだが、美学の文献で作品が例に挙がっていて気になり、調べていくうちに好きになった芸術家だと思う。
自分でも忘れていたが、この年にいろいろと調べていたようだ。
ちなみに、ディキンスンは生涯でほとんど作品を発表しなかったことで有名だが、そのような芸術家をうまく包摂できるような理論を作りたいといつも考えている。
アートワールドもしくは商業主義の要求に鋭く反応する芸術家だけを念頭に置いて芸術一般の理論を組み立てることには警戒心がつきまとうのだ。
『空よりも広く』は昨年の拙論に通じるテーマを扱っている。
『小説のフィクショナリティ』は文学研究の論文集だが、分析美学の議論が参照されていると聞き、購入申し込みした。
芸術
- 絵画は眼でなく脳で見る:神経科学による実験美術史
- インディ・ゲーム新世紀ディープ・ガイド:ゲームの沼
この年はアウトサイダー・アートについて少し調べていた。
『アウトサイダー・アート入門』に登場するシュヴァルは、長門裕介さんが昨年『現代思想』の「人生の意味の哲学」特集に寄稿した論文にも登場し、懐かしさを覚えた。
『インディ・ゲーム新世紀ディープ・ガイド』は、購入申し込みがただちに承認されたわけではなく、研究用である旨を図書館に伝える必要があった。
これはビデオゲームの文化的地位によるものなのだろうかと考えながらメールを書いていたと思う。
哲学
- このゲームにはゴールがない:ひとの心の哲学
- 友情の哲学:緩いつながりの思想
- デカルトはそんなこと言ってない
『言葉の魂の哲学』や『はじめてのウィトゲンシュタイン』をはじめ、古田徹也さんの著作にハマっていた時期で、『このゲームにはゴールがない』も発売間もなく購入申し込みした。
『友情の哲学』は、ネハマスの友情論が引かれていると知り、購入申し込みした(が、あまり紙幅は割かれていなかったと記憶している)。
ちなみに、著者である藤野先生には学部時代にドイツ語の勉強でお世話になっている。
その他
- とりどりの肖像
高名な美学者である著者が身近な人々の生き様を綴り、〈文学としての肖像〉を試みたもの。
元はウェブ連載であり、現在でもかなりの部分を無料で読むことができる。
美学に携わっている者なら、とりあえず「川野洋さん――村八分を乗り越えた飄然たる大人(たいじん)」だけでも読んでみるとおもしろいと思う。
「補注 アートワールドのなかの木村忠太」もおすすめの一編だ。
「芸術作品が鑑賞者の心を表現するとき:分析美学とコリングウッド」論文公開+補足
この度、論文「芸術作品が鑑賞者の心を表現するとき:分析美学とコリングウッド」が『アメリカ哲学研究』に掲載されました。
下記リンク先で読むことができます。
今回の論文は昨年の学会発表を発展させたもので、日本語要旨はここにあります。
論文の内容は、一言で言えば、芸術作品が鑑賞者の心を表現する現象の仕組みと意義を探究するものとなっています。
この記事では、本論の読みどころや関連情報を補足説明しようと思います。
流用現象
ぼくらのなかには 無数のものが生きている
自分が思い 感じるとき ぼくにはわからない
感じ 思っているのが誰なのか
自分とは 感覚や思念の
劇場にすぎない
これはポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアの詩の一部です。
この詩について、ペソアの伝記を著した澤田直はそこで以下のように書いています。
ぼくは最初にこの詩を読んだときに、胸のうちにあった毛糸玉の塊がほぐされるような心地がした。自分が感じていながらうまく言語化できなかった感情や思い。それを詩人や作家が思いも寄らぬ形で表現する。そうした文章に出会って、長年のわだかまりが氷解することは誰しも経験するだろう。
(p. 13)
この一節は、本論の主題の輪郭をうまく描いてくれています。
本論では〈芸術作品が鑑賞者の心を表現する現象〉、または単に〈流用現象〉と呼んでいますが、これは詩や音楽をはじめ、私たちの芸術実践に広く見られるでしょう。
そして、分析美学の小さな一角で、この流用現象に関する研究が行われています。
代表的な論者はウォルトンとリベイロの二人です。
ウォルトンは『フィクションとは何か』で知られていると思いますが、リベイロは近年隆盛しつつある詩の哲学の代表的な論者の一人です。
流用現象をめぐる二人の議論は、本邦では源河亨『愛とラブソングの哲学』にも言及があり、ラブソングを聴くことの意義を考えるために援用されています。
それに対して、本論では二人の議論に批判的検討を加えていますが、重要な点として、二人の議論にはある種の緊張関係があると指摘しています。
詳細は本文を見てほしいですが、そこでは、私たちが芸術作品のうちに自分の心だけでなく、他者(芸術家か誰か)の心をも見て取ることの不思議さが浮上します。
これは先行研究で見逃されてきた重要な点であり、その緊張を解きほぐすことが本論の読みどころの一つとなっています(また、この点に関する議論の追加こそ、学会発表と論文の内容の一番の相違点です)。
コリングウッド
ウォルトンとリベイロに続く、本論の主要な登場人物はコリングウッドです。
コリングウッドは世界的にもマイナーですが、日本では研究がほとんど進んでおらず、その議論の詳細はほとんど知られていません(分析美学では、ウォルハイムの影響力のある誤読を通して知られます)。
私自身は、博士課程でコリングウッドの研究を行っており、研究発表でたびたび扱っているほか、このブログでも、彼の議論のささやかな紹介を何度か行いました。
しかし、コリングウッドの議論を本格的に扱った学術論文は今回が初であり、ようやく実を結んだことは大きな喜びでした。
コリングウッドが美学の文脈で何を、どのように論じたかについてはほとんど知られてこなかったため、彼の議論を現代哲学の枠組みで再構成し、そのあらましを伝えている点も、本論の読みどころの一つと言えるでしょう。
また、哲学史の文脈ではなく、現代哲学の文脈でコリングウッドの重要性を示すということが私の目標の一つですが、本論はその目標の実現に向けた小さな一歩と言えます。
ちなみに、日本でコリングウッドの議論が紹介された稀有な例が、今年八月刊行された『フィルカル』最新号にあります。
本号では、「バーナード・ウィリアムズと哲学史」という特集が組まれ、そこに以下の論考が掲載されています。
この論考で、渡辺はウィリアムズのコリングウッド論を参考にしながら、「われわれがコリングウッドを読むべき理由」を示しています。
渡辺の議論は歴史哲学と形而上学の観点からなされていますが、これになぞらえると、本論は美学の観点から「われわれがコリングウッドを読むべき理由」を示すものとして読むことができるでしょう。
なお、渡辺論考の一つの特色として、コリングウッドに関する日本語文献に目を配り、適宜参照している点が挙げられますが、本論の前身である学会発表にも言及してくれています。
国外に視線を移すと、今年はコリングウッドに関する文献が例年では考えられないほど増加しているのですが、その点は今後このブログで紹介する予定です。
来年以降も、私自身コリングウッド関係の論文を何本か出すつもりですし、近年研究が飛躍的に進んでいるマードックのような哲学者に、コリングウッドも続いてくれればと思います。
アボガド6
本論の第三の読みどころは、流用現象がいかなる芸術種に見られるかについて正面から探究している点です。
先行研究では、あらかじめ議論の主題を特定の芸術種(詩や音楽など)に限定している場合が多く、この問題が正面から取り組まれることはありませんでした。
たとえば、私は視覚芸術に関心があるため、視覚芸術を流用することは可能かについて考えたくなりますが、先行研究では、その可能性を認めるわずかな記述は見られても、本格的な議論はなく、実例も示されません。
本論では、視覚芸術を流用することは可能とする議論を展開しており、その実例としてアボガド6の作品を取り上げています。
本文に図版はありませんが、そこで論じた《心配事》と《立ちくらみ》の図版をここに載せておきます(《心配事》には別バージョンもあります)。
心配事 pic.twitter.com/gyQbbQ1I1C
— アボガド6 (@avogado6) 2017年9月29日
立ちくらみ pic.twitter.com/QxEfZSoHno
— アボガド6 (@avogado6) 2017年8月17日
じつは、アボガド6の作品には以前より注目しており、過去の論文でも扱っています。
- 視覚的修辞:エル・グレコからアボガド6まで
これは『フィルカル』(Vol. 5, No. 2)に掲載されたものですが、描写の哲学の観点からアボガド6の技法について論じています(あとがきはこちら)。
また、「視覚的修辞」の議論を引き継いで、アボガド6論を書いたこともあります。
人間の精神状態を扱った一連の作品において、精神、身体、画像の関係がいかなるものとして捉えられているかを論じたものです。
このブログにあるので、よければ読んでみてください。
今回の論文でも、それほど紙幅を多く割いているわけではありませんが、アボガド6の作品に関する批評的記述を含んでいます。
これは、芸術作品が流用を可能にするのみならず、それをいかに促しうるかという点を示すために書かれています。
そして、アボガド6の作品は現に広く流用されており、これはそのツイートのリプライ欄で確認することができます。
本論では引用を避けましたが、たとえば、以下のような例が見られます。
アボガド6さん、最近見つけたばかりなのですか、私の心の内を表現してくれるイラストが多くて、見る度に少し楽になります。
— 瞬 (@i1uz_7) 2022年11月5日
流用現象を詩や音楽との関わりでのみ論じることの不十分さがよくわかるでしょう。
私としては、画像だけでなく、ビデオゲームやモニュメントなど、開拓すべき領域は数多く存在すると考えています。
インディーゲーム『OMORI』について先日行った発表は、流用現象について直接触れているわけではないものの、そのための土台作りと見なすことができるかもしれません。
今後の展開をお待ちいただければと思います。
描写の哲学、再訪:触図からディープフェイクまで
今年、描写の哲学に関わる執筆を二件行う機会があったが、この記事ではその活動記録ついでに、執筆の過程で伺えた描写の哲学の近年の動向を簡単に紹介したい。
「描写の哲学」で言われる「描写」とは、画像(絵や写真)に特有の意味作用を指す術語であり、描写の哲学とは、要するに絵や写真を主題とする哲学の一分野だ。
私は造形芸術にとりわけ関心があるため、研究を始めた当初はこの分野の文献を中心に読んでいた。
修士課程では画像における感情表現について研究していたが、それ以降は、描写よりも表現の概念に興味をもつようになり、描写の哲学には触れない時期が続いた(その辺の変化はこのブログにも反映されていると思う)。
ところが、今年に入って、描写の哲学に再訪する機会が二度あった。
一度目は美学仲間の銭清弘さんとともに行った、ドミニク・ロペス「芸術メディウムと感覚モダリティ:触図」の翻訳である。
これは『表象』最新号、特集「皮膚感覚と情動――表象から現前のテクノロジーへ」に掲載されている(銭さんの解題つき)。
原著は1997年に出版され、Google Scholarを確認すると、ロペスの論文としてはかなり多く引用されている部類のようだ。
この論文の内容は以前にも簡単にツイートしたことがあるが、ここで少し角度を変えてそのポイントを紹介してみよう。
ロペスの標的は画像の理論と視覚の理論である。
画像の理論では、画像をもっぱら視覚的な表象として捉えようとする動きが目立つが、視覚の理論では、視覚を画像とパラレルに捉えようとする動きが目立つ。
ロペスはその両方に批判を加える。
そこで参照されるのが、先天盲の人々(先天的に目の見えない人々)による画像認知と画像作成に関する心理学の研究だ。
触図(凸線で構成された、触覚でアクセスできる画像)や、触図を作成できるキットを用意した研究でわかったのは、先天盲の人々は画像を認知することも、作成することもできる、ということだ。
このことは目の見える人々のみならず、先天盲の人々にとっても驚きの事実であったという。
では、この事実を考慮したとき、画像の理論と視覚の理論はどのようなものでなければならないのか。
ロペスの議論の詳細については、ぜひ上掲誌を手に取って確認してみてほしい。
画像の理論と視覚の理論以外にも、この論文は複数の問題系を横断し、接続しており、さまざまな切り口から興味深く読めるようになっている。
たとえば、批評理論でおなじみのメディウム・スペシフィシティが重要な論点の一つとなっており、グリーンバーグやスタインバーグの議論が参照されている。
また、芸術と障害の関係について考えるための手がかりも豊富に含まれている。
この論点に関しては、ロペスの新刊『美的不正義』で新たな展開を見せているようだ。
翻訳を行っていた時点では、同名の書籍が刊行予定であることは把握していたが、翻訳中の論文と深い関係にあるとは知らなかったため、これは印象的な出来事だった。
さて、私が描写の哲学に再訪するもう一つのきっかけとなったのは、清塚邦彦『絵画の哲学』の書評の執筆である。
日本では、描写の哲学はあまり盛んに研究されているわけではなく、私の知るかぎり、書籍単位の研究は本書が初である。
著者である清塚は、日本でもっとも精力的に描写の哲学に取り組んできた論者であり、本書はこれまで発表されてきたその研究成果をまとめ、精緻化したものとなっている。
これに対する私の書評は『フィルカル』最新号に掲載されている。
本書の魅力を示しつつ、批判的検討を行っているので、適宜参照されたい。
『絵画の哲学』は、描写の哲学という比較的新しい分野の、古典と呼べるような議論の検討に力を注いでいる。
他方で、翻訳と書評の執筆の過程で、描写の哲学の文献のサーベイを久々に行っていたとき、私はこの分野が近年どのような発展を遂げてきたかを多少知ることができた。
ここでは、個人的におもしろく感じられた動向を二つほど伝えたい。
一つは言語哲学との交流である。
描写の哲学では、知覚や経験の観点から画像を理解しようとするアプローチが盛んで、言語哲学との交流はそれほど多くない(言語行為論を画像に応用する試みはそれなりの蓄積があるが)。
近年では、ジョン・カルヴィッキが言語哲学の道具立てを本格的に用いた描写の理論を提示しているが、孤軍奮闘しているように見えなくもなかった。
しかし、そのような認識に反して、今回わかったのは、描写の哲学と言語哲学の交流は少しずつ、しかし着実に進んでいるということだ。
その背景には、大先輩である言語哲学から知恵を借りて描写の哲学に取り組もうとする従来の動きに加えて、言語哲学において応用的な研究が増えてきている点が挙げられるだろう。
この点を印象的に示しているのは、今年出版された応用言語哲学の論文集に「言語と非言語的コミュニケーション」というパートが設けられ、地図やイコノグラフィーなどの現象が言語とともに扱われていることである。
前述のように、描写の哲学では、知覚や経験の観点から画像を理解しようとする研究が多く、近年は認知科学や心理学、そして(高度に自然化された)知覚の哲学との接続を図る動きが目立っている。
この動きは描写の哲学の発展を間違いなく加速させているが、自分にはそのような方法論はあまり馴染まないと感じる哲学者もいるだろう。
言語哲学と描写の哲学との交流が進むことは、その向きにとって好都合な展開と言えるかもしれない。
そして、言語哲学者に、自分にも画像について何か有意義なことが言えそうだと思ってもらえれば、この分野の発展はさらに加速されるに違いない。
このように、描写の哲学は言語哲学との交流を深めているが、これに加えて、興味深い交流が社会認識論とのあいだにも生まれている。
この交流は、具体的にはディープフェイクというトピックにおいて見られる。
一般的に、ディープフェイクとは機械学習を用いて捏造された映像や音声のことだが、これが認識的脅威をもたらすのではないかという懸念がしばしば表明される。
重要な論点として、ディープフェイクが流通することで、写真や録画の証拠としての地位が毀損され、私たちの認識実践が脅かされる可能性が指摘されている。
そして、ディープフェイクはどれくらい認識的に有害か、それは真の脅威なのか、それとも見せかけの脅威にすぎないのかについて、哲学者のあいだで論争が起きている。
興味深いのは、この論争で描写の哲学の文献が盛んに参照されている点だ。
実際、ディープフェイクに対して表明される上記のような懸念は、デジタル写真の普及後、写真に対して表明された懸念とよく似ている。
写真を簡単に加工できるようになったことで、何か認識的脅威が生じるのではないか。
そして、描写の哲学では、写真の認識的価値をめぐる議論にはそれなりの蓄積があり、このブログでも一度や二度取り上げたことがある。
ディープフェイクの登場を社会認識論の観点からどう受け止めるべきかという問題は、その蓄積を踏まえて論じられているようだ。
さらに、ディープフェイクに描かれる人物が誰かは何によって決定されるのかという、道徳的・法的に重要となりうる問題についても、画像には「正しさの基準」が備わっているという描写の哲学の議論が参照されている。
典型的に、絵画に何が描かれているかは作者の意図によって決定されるが、写真に何が描かれているかは因果関係によって決定されると考えられる。
そうだとして、ディープフェイクの場合はどうか、これはたしかに興味深い問題だ。
このように、描写の哲学は言語哲学や認識論のような他分野と結びつくことで、じつに生産的で刺激的なフィールドとして機能していることがわかる。








































