応用哲学会誌(Contemporary and Applied Philosophy)に論文「意図を明確化するとはどういうことか:作者の意図の現象学」が掲載されました。
芸術制作を行為論の枠組みに位置づけ、現象学的アプローチから、芸術制作にともなうコントロールと自己知(意図知)のあり方を探究する内容です。
この記事では、あとがきとして、論文の舞台裏などの与太話を書いていきます。
内容はこんな感じです。
以下、書きやすいように〈だ・である〉体で書きます。
元となった発表との違い
今回の論文は、昨年開催のワークショップ「作者の意図、再訪」の発表「創造的行為における意図とその明確化」に基づいている。
以上が発表資料だが、発表と論文はいろいろな点で異なっている。
一番大きな変化はパッケージングだろう。
論文の副題は「作者の意図の現象学」だが、発表では、「現象学」というキーワードはほとんど現れていなかった。
とはいえ、この点で議論の中身に大きな変化があったというわけではなく、単に、私が自分の研究の性格について理解を深めた結果、装いを新たにしたにすぎない(この点は後述)。
その他、議論の中身に関する変化として、いくつかの論点が明確化されたほか、後半の議論に実質的な発展が生じたが、かなり専門的な話になるので、ここで詳細に記すのは避けよう。
ともあれ、発表資料はレジュメ形式であり、論文よりも認知負荷が低いので、ざっくり内容を掴むために発表資料の方から覗いていただくのもよいと思う。
学術論文(そして哲学論文)にエピグラフをつけることがどれだけ大胆なことなのかはよくわからないが、いつもどおり、今回の論文でもエピグラフをつけなかった。
しかし、もしつけるなら、私はJ・R・R・トールキン『指輪物語』から以下の四行連を引く*1。
All that is gold does not glitter,
Not all those who wander are lost;
The old that is strong does not wither,
Deep roots are not reached by the frost,
金はすべて光るとは限らない。
放浪する者が皆迷っているとは限らない。
年老いても強いものは枯れない。
深い根に霜は届かない。
力強く美しい詩だが、注目すべきは二行目だ。
「放浪する者が皆迷っているとは限らない」とは、一見奇妙な記述である。
しかし、私はこの詩行が図らずも、芸術制作ないし創造的行為の一つの側面をよく言い当てていると思っている。
典型的に、芸術家は自分の目的地を漠然としか把握していないにもかかわらず、そこに辿りつくための能力を、じれったいほどに頼りないものだが、間違いなくもっている。
その意味で、芸術家は「放浪する者」でありながら、「迷っているとは限らない」。
そして、私が論文で探究したのは、これが具体的にどのような事態なのかということであった*2。
三つの問題系とのつながり
今回の論文は芸術制作を主題とする点で美学の論文だが、私は美学を専門にしている者以外にも読んでもらいたいと思っている。
論文では、議論の背景をなす問題系の一つとして行為の現象学を挙げたが、ここでは、行為の現象学を行為論と現代現象学に分け、そこにメタ哲学を加えた三つの問題系とのつながりを示したい。
行為論
C・ティ・グエンはあるとき、以下のように語っている。
以前、私はゲームについて、分析哲学の確立された用語で書くことに苦労していた。そんなとき、私の友人であり、長年の哲学仲間であるジョナサン・ギングリッチが、この問題の所在をじつに見事に説明してくれた。彼は言う。価値、合理性、行為者性に関する現代の哲学理論は、道徳屋たち(moralists)によって取り込まれている。私たちの理論は、倫理学者や政治哲学者が、自分たちに特有の関心事に対処するために設計された。その結果、私たちは、自分たちが厳格で、まっすぐで、生真面目な行為者であるという哲学的図式を受け継いできたのである。そして、次に芸術、美、遊びといった他の種の活動について考えようとすると、私たちが受け継いできた理論では分析が難しいことがわかる。そのため、哲学者は芸術や遊び、楽しさ、ゲームなどを些細なものとして片づけてしまう傾向にある。しかし、それは芸術や遊びのせいではない。私たちが受け継いできた理論のせいなのだ。
(p. 477)
私の場合、行為論の文献を調べていて困り果てたのは、自分が扱おうとした現象、芸術制作における意図の一見奇妙なあり方がほとんど論じられていないことである。
しかし、まったく論じられていないというわけでもない。
調査の結果、私の問題意識に対して、「表現主義」の名で知られる、比較的マイナーなアプローチをとる議論が示唆的であることが判明した。
というのも、表現主義の支持者は、行為(行為者性)の理論の試金石として、しばしば芸術制作をもちだすからだ*3。
ここで言う表現主義とは、行為と意図の関係を(因果関係ではなく)表現関係と見なす立場のことで、哲学史上の思想家として、ヘーゲルやショーペンハウアー、ニーチェ、ヴィトゲンシュタインなどに結びつけられることが多い。
表現主義によれば、行為と意図は一体である*4。
それゆえ、意図を行為の原因として理解することはできない(意図が行為を引き起こすという言い方はできない)。
表現主義は常識に反しているように聞こえるが、近年の行為論では、因果説は必ずしも支持されておらず、代替案の模索が行われている。
たとえば、鈴木雄大は代替案の模索を行っている論者の一人だが、「表現主義」という言葉を用いていないものの、その議論は表現主義のそれに非常に近い。
行為と意図の関係は行為論の根本問題に違いないが、芸術制作などの創造的行為に注目することは、この問題を(多くの人にとって)新しい角度から捉えるための良い機会となる。
この意味で、今回の論文は行為論の根本問題への貢献が期待できるかもしれない。
エピグラフをつけることほどではないだろうが、「作者の意図の現象学」という副題を掲げることは勇気のいることだった。
というのも、私はあの現象学についてよく知らないからだ。
つまり、フッサール、ハイデガー、サルトル、メルロ゠ポンティをはじめとする人々の思想である。
この意味での現象学については、何冊かの入門書を読んだことがあるだけで、いかつい専門用語が使われている手ごわい分野というイメージをもっており、はっきり言えば、敬遠していた*5。
他方で、今回の論文での試みは、概念をいじったりすることではなく、一人称視点から現象を記述することであり、これを簡潔に言い表すための言葉として、「現象学」ほどふさわしい言葉もないように思われた。
自分が「現象学」をやっているなんて言っても平気なんだろうか、査読者に現象学者が就いて、こっぴどく怒られたりしないだろうか。
結果的に、この懸念はいくつかの知見のおかげで払拭された。
まず、哲学的伝統としての現象学と、哲学的方法としての現象学は区別可能だ。
私が「あの現象学」と呼んだのは前者、現象学的伝統にほかならない。
そして、「現象学」と掲げていながら、現象学的伝統の著作をほとんど参照していない英語文献(美学や行為論のもの)をいくつか目にしたことがあるが、これらはもっぱら後者、現象学的方法を用いている点で「現象学」なのである。
では、現象学的方法とはどのような方法なのか。
この点に関しては、やはり合意はないようだが、『現代現象学』が参考になった。
また、同書の五人の著者が各々の現象学観を披露した『フッサール研究』第16号の特集「現代現象学の批判的検討」も同様に参考になった。
特集論文を読んでわかるのは、五人の著者の現象学観は必ずしも一致しているわけではなく、少なからぬ違いもあるということであり、そして、私は八重樫徹のそれに魅力を感じた*6。
八重樫は、『現代現象学』第1章の議論に呼応して、「現象学は経験から出発し経験にとどまる哲学である」と言う*7。
そして、この点が重要だが、哲学は、それが経験にとどまることに成功している分だけ現象学的だと言え、現象学的であるか否かは程度問題であると八重樫は考える。
このように考えると、私の議論が徹頭徹尾経験にとどまったものになっているかはよくわからないが、かなりの程度経験にとどまっていると言えるだろうし、「作者の意図の現象学」と名乗ることに問題はないと思い至った次第である。
ただし、『現代現象学』の著者の一人、植村玄輝は「現代現象学の実践にとって古典的現象学の知識が事実上欠かせない」と考えており、この立場に従うと、何らかの理由で稀有な例外と認められないかぎり、今回の論文は現象学とはとても言えないだろう。
八重樫はこの種の立場に異を唱えているが、すでに論文が採択されたいまとなっては、現象学的伝統の古典に詳しい者が私のような問題意識をもった場合にどのような議論を展開するかの方が、私としては気になるところだ。
メタ哲学
芸術についての哲学や、科学についての哲学が存在するように、哲学についての哲学も存在し、これは「メタ哲学」と呼ばれる。
メタ哲学の中心に据えられる問いは、言うまでもなく〈哲学とは何か〉である。
この問いは、哲学の上位カテゴリーとして何を想定するかに応じて、可能な応答も変化してくる。
たとえば、哲学を学問として捉えた場合と、生き方として捉えた場合では、どのように応答すべきかは変わってくる。
そして、今回の論文と関わる哲学とは〈行為としての哲学〉であり、つまり、哲学することである*8。
アカデミア、哲学カフェ、はてなブログなど、さまざまな場でさまざまな人が哲学しているが、哲学するとはどういう行為か、これが問題である。
たとえば、村山達也は自身の研究発表「ベルクソンの潜在性概念」について、「まず、ドゥルーズの潜在性解釈は間違いかも、という感触があった」というところから、発表原稿を仕上げるに至るまでのプロセスを分析している。
これは〈行為としての哲学〉についての哲学の試みと言ってよい。
また、山口尚と千葉雅也の対談における以下の一幕を見てみよう。
質疑応答も済ませたところで、イベントを締めくくるにあたって、司会は以下のような発言を行っている。
山口先生や千葉先生は、千葉先生の場合は小説も含まれますけれども、言葉を構築して、本当に言葉を選んで選んで、吟味して、組み立てて、ひとつのテクストを作り上げるという、職人的な面も強くお持ちの方々であられます。そうした職人的な面のことは、コントロールと呼ばないとしたら、何と呼べばよいだろうか、ということも、最初のお二人の対談の最後のほうで思ったりしました。
(p. 98)
文脈として、本イベントでは〈コントロール批判〉が一つのキーワードになっており、その点に関連して行われた発言だが、山口は以下のように応答している。
僕が本を書くときコントロールしていないのかという話は、それは大事だし、また考えてきます。本を書くとはどういうことか、ですね。それは宿題にします。
(pp. 98-99)
芸術制作や哲学的執筆において、コントロールというものをどう考えるべきか。
これはまさしく今回の論文で論じている問題である。
哲学者は「放浪する者」でありながら、「迷っているとは限らない」。