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スフレを穴だけ残して食べる方法

写真のニュー・セオリー:批判的吟味と応答(その1)

C. Abell, P. Atencia-Linares, D. Lopes, D. Costello. 2018. “The New Theory of Photography: Critical Examination and Responses.” Aisthesis 11(2): 207-234.

近年、写真の哲学では大変動が起きているらしい。

写真の本性に関する従来の見解を覆す「ニュー・セオリー(New Theory)」が一部の論者から提案され、注目を集めているのだ。

この大変動を象徴するのはニュー・セオリーを導入する二冊の本、ドミニク・ロペス『Four Arts of Photography』とディルムッド・コステロ『On Photography』である。

 

Four Arts of Photography: An Essay in Philosophy (New Directions in Aesthetics) (English Edition)

Four Arts of Photography: An Essay in Philosophy (New Directions in Aesthetics) (English Edition)

 

 

On Photography: A Philosophical Inquiry (Thinking in Action)

On Photography: A Philosophical Inquiry (Thinking in Action)

 

 

今回取り上げるのは、この二冊をキャサリン・エイベル*1パロマ・アテンシア=リナレスの両名が批判的に吟味する論考二本と、二人の著者による応答二本から構成された論文だが、そのうちとりわけエイベルの論考「古きを捨てる?写真のニュー・セオリー」を紹介したい。

エイベルの論考はロペスの本の大枠を概説しており、この刺激的で巧妙な本*2もぜひ紹介したいと思っていたから一石二鳥だ。

いずれにせよ、ニュー・セオリー(厳密にはその一バージョン)は加工写真抽象写真を難なく写真の事例として数え上げる点で目を見張るものがあり、写真芸術の探究者にとって得るものは大きいと思う。

芸術的意義と認識的意義の対立

エイベルはまず、写真についての現代の考え方にはある問題が隠されていることを指摘する。

一方で、われわれは写真を一つの芸術形式と見なす。

この見解には、写真が作者の個人的な意図やその他の心理状態を明示できるという確信がある。

他方で、われわれは写真に(素描などには認めない)特別な認識的価値を認める。

しかし、これはまさにわれわれが写真は作者の心理状態の影響を受けないと考えているからではないだろうか。

どうすればこの対立を乗り越えることができるだろうか。

この問題を心に留めて歩みを進めよう。

哲学的正統派

コステロ「正統派(orthodox)」理論と呼ぶ従来の写真理論は、写真の認識的意義を説明することを狙いとしてきた。

正統派は、写真が機械的プロセスから生まれるために作者の信念の影響を受けず、ゆえに優れた情報源なのだと考える。これは写真誕生当時から現代に至るまで、さまざまな論者が支持してきた考え方だ。

とりわけ、ロジャー・スクルートンとケンダル・ウォルトンは写真を以下のように解釈する。

  • 正統派理論:写真とは、それが描く対象の特徴を作者の信念とは独立に追跡する画像表象である。

特徴追跡(feature tracking)とはどういうことか。あまりにも常識的なことだが、被写体の見た目に変化があれば、その写真の見た目も変化する。哲学者好みの言い方をすると、写真の現れは被写体の現れに反事実的に依存する。特徴追跡はこの事態を指す。

特徴追跡は素描などにもしばしば当てはまるが、作者の信念を介してそうする点で写真とは異なる。

一方、写真は作者の信念を介することなく、光景の特徴を追跡する。つまり、写真だけが信念独立(belief-independent)なのだ。

この主張に対して、ただちにこう反論できるかもしれない。

覆い焼きや焼き込みのような技法を用いれば、信念独立に特徴追跡しない写真を作成できるではないか。

しかし、正統派の論者はこうした技法を純粋に写真的なものではないと考える。

こうした技法の使用は、写真作成の実践における絵画などの非写真的描写技法の影響を表しているにすぎない、というわけだ。

そして、純粋な写真はこうした技法を避けることで信念の影響を受けない。

以上が正統派の考え方だが、これは写真の認識的意義によく適している一方で、写真の芸術的地位に対する懐疑論をもたらす。

芸術作品は作者個人の思考を表現できなければならないという主張は説得的だが、写真は作者の信念とは独立に光景の特徴を追跡するため、光景の描き方(どう描くか)を通して作者の思考を表現することができない。

この言い回しが示唆するように、光景の選択(何を描くか)を通して作者の思考を表現できると考えられるかもしれない。

しかし、その場合の懸念は、鑑賞者の関心は写真自体にではなく、写真に描かれた事物へと抜け落ちる(drop through)ということだ。写真はその主題にアクセスするための手段でしかなく、原理上不要となってしまう。

すると、正統派は写真が芸術ではないことを支持するように思われる。この結論を導く懐疑論者の論証をロペスは以下のように整理している。

  1. 純粋な写真とは、信念独立の特徴追跡によってのみ描かれるイメージである。
  2. 純粋な写真が信念独立の特徴追跡によってのみ描かれるイメージであるならば、そこに描写的に表現される思考としての関心事はありえないが、
  3. イメージが表象的芸術作品であるのは、そこに描写的に表現される思考としての関心事があるときにかぎる。
  4. ゆえに純粋な写真は表象的芸術作品ではないが、
  5. 写真は純粋な写真が表象的芸術作品であるときにかぎり芸術である。
  6. ゆえに写真は芸術ではない。

写真は芸術である

写真が芸術ではないことを導くとすれば、正統派理論には問題がある。なぜか。美術館やギャラリーを見ればわかるように、写真が芸術であることは事実だからだ!

では、どこに問題があるのか。エイベルによれば、正統派理論は二つの問題を抱えている。

第一に、コステロが指摘するように、写真は作者の信念に依存して事物の特徴を追跡しうる。

被写界深度の浅い写真を考えよう。その被写体に変化があったとしても、被写界深度が浅いために、その写真に変化が生じないかもしれない。写真に変化が生じるのは、作者が被写体の変化に気づき、被写界深度を調整し、その変化を写真に反映させるときだけである。このとき、写真の特徴追跡は作者の信念に依存している。

第二に、ロペスが指摘するように、信念独立性は写真に特有のものではない。

多くの描画プロセスでも、目と手の協働が心の概念と信念をつかさどる部分を迂回することで、事物の特徴を信念独立に追跡することができる。

なるほど、正統派の問題点はわかった。しかし、芸術形式としての写真の本性とはいかなるものか。

『Four Arts of Photography』において、ロペスは写真が芸術となるための四つの条件を特定している。

そのやり方が巧妙だ。ロペスは懐疑論者の論証の四つの(つまりすべての)実質的前提の真偽を一つずつ、他の前提はすべて正しいと仮定して検証する。結果、各前提の虚偽を示す四つの写真芸術の存在が判明する。

一、古典的伝統(classical tradition)の写真芸術は、作者の思考を描写的に表現しないにもかかわらず、表象的芸術として関心の対象となるため、前提3の虚偽を示す。それらの作品は肉眼では不可能な仕方で世界を明らかにするため、関心の対象となる*3

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Bill Brandt, Nude, East Sussex Coast, 1959.

二、キャスト写真(cast photography)は前提2の虚偽を示す。それらの作品は対象(object)と主題(subject)という二つのレベルの表象をもち、主題は部分的には描写された対象のおかげで表象されるが、対象そのものによっては表象されないため、キャスト写真は作者の思考を描写的に表現することに成功する*4

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Cindy Sherman, Untitled Film Still #3, 1977.

三、叙情写真(lyric photography)は、写真的出来事(意味は後述)から視覚イメージを生み出すための多様な形式のしるしづけ(mark making)を利用することで、写真のプロセスと手続きを主題化する作品群である*5。それらの作品は信念依存の特徴追跡を用いるため、前提1の虚偽を示す*6

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Gerhard Richter, Betty, 1988.

ロペスはゲルハルト・リヒターの『ベティ』という興味深い作品を取り上げている。この作品はキャンバスに投影されたイメージに基づいて、その輪郭をなぞり、色を塗った作品だ。

リヒターはこれを、写真の複製を作成するのではなく、描画(paint)することで写真を作成するプロセスだと見なしている。

ロペスも同意する。ロペスによれば、『ベティ』は絵画であると同時に写真である。それは描画によって完成した写真なのだ。関連して、ロペスは以下のように述べている。

イメージを素描にするのは、その表面が特定の身体的動きによってしるしづけられるということである。素描と写真は相互排他的ではない。写真記録的出来事からの情報は、表面をしるしづけるために身体の動きを導くかもしれない。出来上がるイメージは写真であり、かつ素描である。

四、抽象(abstraction)は前提5の虚偽を示す。抽象的写真作品は何かを表象しているものの、その描写内容は鑑賞の焦点とはならず、ゆえに作品の芸術的地位に責任を負わない*7

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Shirine Gill, Untitled No. 1, 2008.

そして、いくつかの写真作品は四つの写真芸術の二つ以上に属しているという*8

写真のニュー・セオリー

ロペスの見解について、正統派の支持者はとりわけ叙情写真が純粋な写真であることを否定し、ゆえに写真芸術であることを否定するように思われる。

ロペスは叙情写真が純粋な写真であることを示すため、パトリック・メイナードとドーン・ウィルソン*9が提案した写真のニュー・セオリーを援用する。

ウィルソンの説明を見てみよう。ウィルソンによれば、写真に特有なのは(信念独立性などではなく)そのプロセスに写真的出来事が含まれることである。この概念こそニュー・セオリーの核をなすものだ。

  • 写真的出来事(photographic event):光の像(light image)によって伝達された情報が記録、保存される出来事。

ただし、写真的出来事だけでは写真を作成するのに不十分であり、視覚イメージを作成すべく、記録された情報が処理される必要がある*10

そして、写真的出来事によって記録された情報を視覚イメージへと処理するとき、そこにさまざまな方法があること、写真家が卓越性を発揮する余地があることを認める点でニュー・セオリーは写真の芸術的意義を強調する。

また、それは写真のプロセスを〈シャッターボタンが押された瞬間に重要な工程が完了するもの〉として考える傾向にある正統派理論に訂正を迫るものでもある。

しかし、叙情写真が純粋な写真なのかどうかは、ここからニュー・セオリーをどう発展させていくかにかかっている。

 

次回:写真のニュー・セオリー:批判的吟味と応答(その2) - #EBF6F7

 

*1:以前このブログでは「アベル」と表記していたが、より本来の発音に近いと思われる「エイベル」に改めた。

*2:現在読み進めているところ。

*3:例としては、アンリ・カルティエ=ブレッソンエドワード・ウィンストン、ケルテース・アンドル、ダイアン・アーバスらの作品がある。

*4:例としては、ジェフ・ウォール、アンドレアル・グルスキー、シェリー・レヴィーン、トーマス・シュトゥルートらの作品がある。

*5:「叙情写真」という名前は言葉の物質的側面(音の響き)が重視される叙情詩に由来する。

*6:例としては、リチャード・モス、キャサリン・ヤス、トーマス・ルフらの作品がある。

*7:例としては、アイリーン・クインラン、ジェシカ・イートン、ロッテ・ヤコビらの作品がある。

*8:『Four Arts of Photography』ではジェームズ・ウェリングの「花」シリーズが四つの写真芸術すべてに属する作品として挙げられている。

*9:旧姓フィリップス。

*10:暗室作業はその役割を担う典型例だ。