キャラクター研究が盛り上がるなか、あまり注目されていない一つの問題がある。試論ではあるが、それを取り上げてみたい*1。
二つのキャラクター概念
二つのミニマルなキャラクター概念から始めよう。
第一に、キャラクターとは物語の登場人物である。
『オツベルと象』のオツベルや『魔女の宅急便』のキキはこれに当たる。
第二に、キャラクターとは虚構の人格をもつ対象である。
この二つのキャラクター概念の外延が一致しないことに注意しよう。
物語の登場人物だが虚構の対象ではない事例(『戦争と平和』のナポレオン)もあれば、逆に虚構の対象だが物語の登場人物ではない事例(初音ミク)もあるのだ。
(以下では基本的に第二のキャラクター概念に照準を合わせる。)
実在の探偵か、虚構の探偵か
さて、探偵風の男性を描いた一枚のごく普通の肖像画を思い浮かべよう。
まず、第一のキャラクター概念に照らして考えよう。
肖像画は一般に物語を表象しているとは見なされないため、キャラクターを描いているとは言えない*2。
第二のキャラクター概念の場合はどうだろう。
ここに描かれた男性が虚構の対象であるとき、キャラクターを描いていると言える。
しかし、この肖像画を見ただけでは、そこに描かれた男性が虚構の対象かどうかがわからない。
重要なことは、画像が直接〈実在である〉や〈虚構である〉といった性質を描くことができないという点だ。
キャプションといった画像外の情報から、その主題がシャーロック・ホームズ(虚構の対象)だと把握してようやく、キャラクターを描いていると見なすことができる。
ただし、画像を見ただけで主題が虚構の対象かどうかがわかる場合もある。
たとえば、以下のように、描かれた特徴を通して主題を特定することでわかるかもしれない。
青いタヌキのようなものが描かれている。これはドラえもん(虚構の対象)だ!
画像的キャラクターの新たな謎
しかし、興味深いことに、われわれは主題を特定できないにもかかわらず、描かれたものをキャラクターと見なすことが、さらに、その判断が適切であることがしばしばあるのだ*3。
これこそ、私がこの記事において注目したい問題である。
二つの事例を挙げよう。
記事の都合上、キャプションは脚注に記した*4。
記事の都合上、キャプションは脚注に記した*5。
どちらの事例でも、あなたは主題を特定できないとしても、描かれているのはキャラクターだと見なすのではないだろうか。そして、その判断は適切だと言えるだろう。
再度強調すれば、画像は直接〈実在である〉や〈虚構である〉といった性質を描くことができないはずだ。
画像外の情報がない状況で、あなたがその判断を下すことは、そしてその判断が適切であることはいかにして可能なのか。
画像的キャラクターをめぐる実践
単純に、私は実践に訴えればよいと考えている。
つまり、以下のような実践にわれわれは参与しているのだ。
- しかじかの特徴群をもつものとして描かれているとき、それをキャラクターと見なすべし。
「しかじかの特徴群」の内実はどうなっているのだろうか。
われわれが描かれた特徴から主題をキャラクターだと見なす事例はどれも二つの特徴をもつように思われる。
- 人格を感じさせる。
- 実在感が希薄である*6。
この二つの特徴は、第二のキャラクター概念に親和的である点で特別視に値する。
すなわち、人格をもつことと人格を感じさせることが、虚構であることと実在感が希薄であることが親和的なのだ。
実践の記述にこの二つの特徴を適用すると、以下のようになる。
- 人格を感じさせ、実在感が希薄なものとして描かれているとき、それをキャラクターと見なすべし。
しかし、これに対する反例がある(おそらく少なくない)。
たとえば、新聞の風刺画に描かれているものは、人格を感じさせると同時に実在感が希薄でありうるが、(主題が特定できないとしても)われわれはそれを実在の政治家か何かと見なし、キャラクターとは見なさない。
そこで、二つの解決策が考えられる。
より穏健なバージョンは、われわれが描かれた特徴から主題をキャラクターだと見なす事例に共通する特徴をより多く割り出し、通常われわれがキャラクターとは見なさない事例が外れるようにする*7。
よりラディカルなバージョンは、上記の二つの特徴を維持し、それらの特徴をもつものとして描かれているにもかかわらず、われわれがキャラクターとは見なさない事例を例外と見なす*8。
どちらがキャラクターをめぐるわれわれの実践の実態に近いだろうか。
私はここでどちらか一方を擁護することはしないが、最後に、この問題に注目することで得られる洞察を示したい。
不特定のキャラクター
われわれはキャラクターについて考えるとき、それを同一性をもつ特定の何かと見なしがちである。
しかし、不特定のキャラクターも存在する。これまでの議論はその画像的事例の存在を示唆している。
このことを示すために、まず一枚の静物画を考えてみよう。
われわれは画像に描かれた特徴から主題を果物と見なすことができるが、その際に特定の果物を想定する必要はない。
むしろ、不特定の果物を描いていると見なすかもしれない。
同様に、すでに見たように、われわれは画像に描かれた特徴から主題をキャラクターと見なすことができるが、その際に特定のキャラクターを想定する必要はやはりない。
それは不特定のキャラクターを描いているかもしれない。
たとえば、MakeGirlsMoeを利用して作成した画像に描かれたものは不特定のキャラクターだと言える。
それは固有名をもたず、同一性ももたない*9。
これはやや特殊な事例だが、不特定のキャラクターは身近にあふれている。
わかりやすいのはモブキャラクターだが、モブとは限らない。
多くの絵師は息抜きに不特定のキャラクターの素描を作成しては、SNSに投稿している*10。
また、いわゆる「キャラ・アート」の作品は不特定のキャラクターを描いていることが少なくない。
こうした事例では、不特定のキャラクターは(モブとは違い)作品の主要な構成要素となりうる。
キャラクターをめぐるわれわれの実践をよりよく理解するには、不特定のキャラクターの存在を忘れてはならない。
*1:手間がかかることが予想されるため、先行研究との接続を図ることはしないが、主要な先行研究として、高田敦史「図像的フィクショナルキャラクターの問題」、シノハラユウキ『フィクションは重なり合う』、松永伸司「キャラクタは重なり合う」の三本を挙げておく。
*2:ここに描かれた男性が他の作品の物語に登場している場合でも、キャラクターを描いているとは言えないだろう。ナポレオンの肖像画を考えればよい。
*3:適切であるとはどういうことか。写真に写っている人物らしきものを人物と見なすことは、それが実際にはハイパーリアリズムの彫刻である可能性があるにもかかわらず、適切だと言える。それと同じ意味で、私が言及したキャラクター判断は適切である。
*4:みふねたかし. ヴァイオリンを弾くウサギのイラスト. 2018
*5:丸井シロ. 雨乞い師くん. 2017.
*6:目が異常に大きい、頭身が異常に低い、ウサギだが二足歩行するなどの特徴を思い浮かべてほしい。
*7:われわれが描かれた特徴から主題をキャラクターだと見なす事例一般(だけ)に対応する特徴群は存在せず、少女マンガ的キャラクターに対応する特徴群やゆるキャラ的キャラクターに対応する特徴群など、より局所的なかたちでしか存在しない可能性もあるだろう。
*8:こちらではいつ例外となるかを特定する作業が課せられるだろう。
*9:画像に描かれた特徴のどれがそのキャラクターの同一性に関与するかを考えることはナンセンスに思える。
*10:お気に入りの素描に描かれた不特定のキャラクターに同一性を与えることで、特定のキャラクターにすることもあるだろう。