Nanay, B. 2009. “Narrative Picture.” Journal of Aesthetics and Art Criticism 67(1): 119–129.
「物語」という語を聞いて、われわれがまず思い浮かべるのは文学作品だろう。しかし、言語を用いない物語もある。物語画、より一般には物語的画像*1がそうだ。
しかし、画像が物語的であるとはどういうことだろうか。画像が表象するという物語とは何か。これを考察する論文として、今回はベンス・ナナイの「物語的画像」を紹介したい。
ナナイは物語的画像と関わる際の経験に注目することで、これに応答する*2。
なお、ナナイは文学的事例と画像的事例に通底する物語経験について素描的に考察しているが、その点は扱わない。
先行研究:結びついた出来事
まず、ナナイは〈物語とは何か〉という問いに取り組む先行研究として、ノエル・キャロルらの理論を取り上げる*3。
彼らの理論はどれも、物語とは〈特定の仕方で結びついた二つ以上の出来事〉であると説明している。たとえば、キャロルによれば、物語とは因果的に結びついた二つ以上の出来事である。
こうした説明は、文学的物語に関してはうまくいくかもしれない。しかし、画像的物語に適用しようとすると問題が起きる。
たとえば、風俗画は伝統的に美術史家によって物語画の一種であると見なされてきた。しかし、通常、風俗画は一つの出来事しか表象しないように思われる。このとき、風俗画はなおも物語画であると言えるのか?
われわれは〈特定の仕方で結びついた二つ以上の出来事〉という物語の説明を維持するため、美術史家の実践を否定し、風俗画は物語画ではないと認めることができる。
しかし、この提案はあまり魅力的ではないうえ、より深刻な問題に突き当たる。
結局のところ、画像は一つの出来事しか表象できないのではないか*4。画像が一連の出来事を表象することなどできるのだろうか?
描写と表象、知覚と想像
ナナイは描写と表象を区別し、〈画像はそれが描写する事物以上のものを表象できる〉と主張することでこの問題に対処できると指摘する。
しかし、画像が出来事を描写せずに表象するとはどういうことか。また、われわれはそれをいかにして知ることができるのか。
一つの提案は、描かれた出来事に基づいて、描かれていない出来事は想像されるということだ。
たとえば、原因となる出来事は描かれるが、結果となる出来事とその二つの因果関係は表象される。さらに、前者は知覚されるが、後者は想像される、というように。
この提案は物語画の事例に当てはまるだろうか。
Jacques-Louis David, Detail of The Coronation of Napoleon, 1805-1807.
この絵画に描かれた出来事ははっきりしている。つまり、ナポレオンが皇帝として聖別されているという出来事だ。
しかし、これ以外に(描かれた出来事の原因であれ、結果であれ)どんな出来事が表象されているだろうか。こちらははっきりしていない。
むしろ、ダヴィッドの絵画をはじめ、歴史的・聖書的・神話的絵画は、絵画を物語的にする他の要素を示唆している。
つまり、われわれは描かれた出来事が他のいくつかの出来事と因果的に結びついていることを知っていなくてはならない。
では、これでうまくいくのだろうか。
ナナイは、この種の説明が物語の文学的事例と画像的事例のあいだに非対称性を導入することに難色を示す。
あるテキストが〈他の出来事と因果的に結びついているとわれわれが知っている単一の出来事〉を表象するとしても、われわれはそれを物語とは呼ばないのだ。
「ナポレオンは皇帝として聖別された」という文は物語ではない。
先の提案をもう一度検討しよう。
この絵画において、われわれが見ているのはナポレオンが王冠を持ち上げているところだ。
われわれはその王冠が誰かの頭に置かれるところは見ていない。
しかし、この出来事もおそらく、この絵画が表象しているものの一部である。というのも、そうでなれば、この絵画はナポレオンの聖別の絵画ではなくなってしまうからだ。
したがって、われわれはまだ描かれていない出来事を見つけたことになる。
『ナポレオンの戴冠式』では、〈ナポレオンが王冠を持ち上げる〉という出来事が描かれ、〈ナポレオンがその王冠を自身の頭に置く〉という出来事とその二つの因果関係が表象される。
そして、前者は知覚され、後者は想像される。ゆえに、この絵画は物語画だというわけだ。
ここで懸念されるのは、王冠を持ち上げることと王冠を頭に置くこととが明確に二つの別々の出来事だというわけではないことである。
そして、ナナイは知覚が時間的次元をもちうることを指摘することで、われわれは単一の出来事を見ているのだと主張する。
トマトを見るとき、われわれはトマトの一部(前面)を見て、他の一部(背面)を想像するとは言わない。われわれはトマト全体を見ているのである*5。
これを時間的次元に拡張できないと信じる理由はない。
そうすると、われわれはナポレオンが王冠を持ち上げるのを知覚し、それを頭に置くのを想像するのではなく、〈ナポレオンが王冠を戴く〉という行為の全体を知覚しているのだと言うことができる。
そして、物語画は二つの別々の出来事を表象しているのではなく、行為の全体を表象していると言う方が自然であるように思われるとナナイは言う。
行為ベースの説明
ナナイ自身は、〈特定の仕方で結びついた二つ以上の出来事〉というモデルを破棄し、行為という概念に基づいて物語的画像を説明しようとする。
まず、素朴な物語概念について考えてみよう。
それは、そこで何かが起きているテキストや画像のことだろう。そして、何かが起きているということは通常、〈誰かが何かをやっている〉という形式をとる。
さらに、物語的画像は高い割合で行為を表象している。
ここから、ナナイは行為概念を鍵とする以下の物語的画像の説明を提案する。
それは、簡略化すれば、物語的画像の経験では、〈登場人物の行為がわれわれの意識(aware)しているものの一部となっている〉ということが重要な(もしかすると必要かつ十分な)特徴となっている、というものだ。
そして、二種類の問題点に対処することで、ナナイはこの説明を肉づけする。
行為を表象しない物語画
Jacques-Louis David, The Death of Marat, 1793.
『マラーの死』は物語画である。しかし、ここに描かれている唯一の人物、マラーは何も行為をしていないではないか。
これに対して、ナナイは行為が描写ないし表象される必要はないと言う。
この絵画において、表象されているのは行為(マラーの暗殺)の結果だけである。
しかし、物語との関わりにおいて重要なのは、その行為がわれわれの意識しているものの一部であるということだけなのだ。
したがって、物語的画像との関わりにおいて、行為のあり方は以下の可能性に開かれている。
- その行為は現になされてはいないが、すでになされたものか、なされるであろうものである。
- その行為は描かれた光景の外でなされている。
- その行為はなされるべきである。
思いつきにくい三番目の事例として、ナナイはバスター・キートンの『キートンの蒸気船』の有名な場面を挙げている。
そこでは、家のファサードがキートンに向かって落ちているにもかかわらず、彼は立ったままである。キートンはいかなる行為もしていないが、明らかに、彼は避難すべきだ*6!
行為の範囲
ナナイの説明に対して、そもそも行為とは何かと疑問に思うかもしれない。
呼吸は行為なのか?座っていることは?
何らかの基準を設けないかぎり、ほとんどあらゆる人物画が物語画となってしまうのではないか。
これに対してナナイは、画像的物語との関わりにおいて、われわれが意識するのは目的指向行為(goal-directed action)である可能性が高いと応答する。
ナナイは目的指向行為を、何らかの種の目的を達成しようとする行為と特徴づける。
そして、目的指向行為かそうでないかの区別は、行為タイプ間ではなく行為トークン間のものであることに注意を促す。
たとえば、呼吸は一般に目的指向行為ではないが、厚い煙のなかでそうする努力が必要である場合には目的指向行為であると言える。
また、ナナイによれば、目的指向行為とそうでない行為の違いは程度問題である。
このことは物語的画像について重要な帰結をもたらす。
物語性:物語に度合いを設ける
グレゴリー・カリーによれば、「物語性(narrativity)」は度合いをもち、物語の説明はこの事実に対応可能であるべきである。
これに対して、ナナイは行為の目的指向性の度合いを画像経験の物語性の度合いと対応させる。
つまり、そこでわれわれが意識する行為の目的指向性が高ければ高いほど、その画像との関わりはより物語的なものとなる。
ここで、フェルメールの絵画が言及される。
興味深いことに、フェルメールの絵画の多くは目的指向的ではないか、非常に弱い意味でのみ目的指向的な行為(牛乳を注ぐ、手紙を読む、など)を描いている。
しかし、より目的指向的な行為を描いた絵画もある。
Johannes Vermeer, The Wine Glass, 1660.
『紳士とワインを飲む女』はその最良の例であり、描かれた女性はワイングラスを空にしているが、これは明らかに目的指向行為だ。
これらの絵画との関わりを、物語的であるものとそうでないものとに厳密に分けることは誤っているだろう。
物語性には強弱がある。
フェルメールの風俗画はダヴィッドの歴史画ほど物語的ではないが、セザンヌの静物画よりは物語的だと言えるのだ。
コメント
〈特定の仕方で結びついた二つ以上の出来事〉という、文学的事例を念頭に置くかぎり非常に説得的な物語の古典的説明を却下し、行為概念に基づいて物語画を説明しようとするナナイのアイデアはおもしろい。
しかし、ナナイが前半で退けている、物語の古典的説明を前提とした種の説明も決定的に論駁されているわけではない。物語の古典的説明に愛着をもつ人は少なくないと思うので、その路線で何か別の理論を仕立ててもよいだろう。
ちなみに、来月東京大学にて開催される画像経験のワークショップでは、カテリーナ・バンティナキが「On narrative pictures」というタイトルで発表するようです。
ナナイの議論への言及もあるかもしれません。興味のある方は参加してみてはいかがでしょう。
*1:ナナイはカルティエ=ブレッソンの『サン=ラザール駅裏』のような写真や、動画の事例も取り上げている。
*2:ナナイは描写の理論における経験説とのアナロジーを用いて、これは(画像的)物語の経験説の試みだとしている。
*3:キャロルのほか、グレゴリー・カリー、デイヴィッド・ヴェルマンの理論が取り上げられている。
*4:異時同図法という技法もあるが、ここでは異時同図法を用いないケースが問題となっているのだろう。実際、物語画とされる作品の多くは異時同図法を用いていない。
*5:これだけではわかりにくいかもしれない。ここで言われているのは、トマトを見るとき、われわれは〈トマトの前面〉以上のもの、つまり〈隠れた側面をもち、中身の詰まったトマト〉を見ているのだという(おそらく現象学に由来する)主張だと思われる。