#EBF6F7

スフレを穴だけ残して食べる方法

写真のニュー・セオリー:批判的吟味と応答(その2)

C. Abell, P. Atencia-Linares, D. Lopes, D. Costello. 2018. “The New Theory of Photography: Critical Examination and Responses.” Aisthesis 11(2): 207-234.

 

前回:写真のニュー・セオリー:批判的吟味と応答(その1) - #EBF6F7

 

『ベティ』のような叙情写真は純粋な写真か。

この問いに応じるには〈写真とは何か〉という根本的な問いに立ち返る必要がある。

そこでロペスは写真のニュー・セオリーを導入する。

ニュー・セオリーは写真のプロセスに注目し、写真に特有なのは写真的出来事であると考える。

  • 写真的出来事(photographic event):光の像(light image)によって伝達された情報が記録、保存される出来事。

この写真的出来事を組み込みつつ、ロペスはいかなる写真の理論を構築するのか?

引き続きエイベルの論述を追っていこう。

制限的?寛容的?

コステロはニュー・セオリーを制限的と寛容的という二つのバージョンに区別している。

その違いは、〈写真的出来事で記録された情報〉を処理するプロセスにいかなる制限をかけるかという点にある。

制限的(restrictive)バージョンは、写真が一般に作者の信念とは独立に事物の特徴を追跡するものとなるよう、そのプロセスに制限をかける*1

一方、寛容的(permissive)バージョンは写真的出来事に後続するプロセスにほとんど何も制限をかけない。

これは、そのプロセスが絵画や素描と共通のものでありうることを認めるということを意味する。結果として、信念独立性は写真に内在的な性質ではなくなる。

コステロが述べるように、寛容的ニュー・セオリーによれば、「信念独立の特徴追跡は写真と絵画の違いではなく、両方に見られる自動的プロセスと非自動的プロセスの違いを説明する」ものなのだ。

『ベティ』を絵画であると同時に写真だと見なすことからわかるように、ロペスの理論は寛容的である。それを定式化したものがこれだ。

  • 写真とは、前写真的光景の光の像からの情報を記録する電子・化学的出来事からの入力を受け取るしるしづけプロセスによって出力されるイメージである。

私の拙い翻訳もあり、まるで呪文のようなので、ここで『Four Arts』におけるロペスの説明を参照しておこう。

ロペスは写真のプロセスを四つの段階に分ける。

  1. 前写真的光景(pro‐photographic scene):写真装置(通常はカメラ)の前にある世界の一片。
  2. 前写真的光景の動的な光の像(light image)*2が感光面へと投影される。
  3. 写真記録的出来事*3:光の像の情報が記録媒体(乳剤やデータファイル)に記録される。
  4. しるしづけプロセス:記録された情報が視覚イメージへと処理される。

写真とはこの四つの段階から成るプロセスの産物だが、第三段階だけが本質的に写真的である*4

この理論はカメラ・オブスクラを利用して作成した絵画を除外し、フォトグラムを包摂する。

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illustration of the camera obscura principle

フェルメールはカメラ・オブスクラが作り出す光の像を慎重に写し取る。このとき、彼はその情報を記録するが、その仕方は電子・化学的ではなく、心理・神経的である。要するに、ここに写真記録的出来事はない代わりに神経記録的出来事がある)。

一方、ジェームズ・ウェリングは印画紙に直接花を置き、光に当てたものを現像する。そうしてフォトグラムの作品が出来上がる。

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James Welling, Flower 009, 2006.

カメラは用いられていないが、写真のプロセスの四つの段階は揃っている。ゆえにこれも写真の一例なのだ。

 

さて、ロペスは写真の理論において、写真的出来事に後続するプロセスにいかなる制限もかけていない。

コステロはここに懸念を示して、以下の架空の事例を考えさせる。

リヒターは『ベティ』と同じ技法でキャンバスにケルン大聖堂の写真を投影し、それをトレースする。しかし、そうして生まれた画面を不満に思い、ざまざまな技法を用いてそれをぼかしていく。最終的に、ほぼ灰色一色の抽象画が出来上がる。

これは写真なのか?コステロは暗黙に否定するが、ロペスの理論ではこれは写真の事例となる。

というのも、「写真のニュー・セオリーは、写真的出来事が記録した情報の大半を写真処理が保存することを要求しない」と彼は主張しているからだ*5

エイベルはコステロに同調し、ロペスのニュー・セオリーは寛容すぎると見なす。

何らかの制限をかける必要があるかもしれない。

コステロは、観者がその表面の内に大聖堂となりうる何かを見ることが可能でなければならず、その写真的起源(=大聖堂)が鑑賞においてもはやいかなる影響ももたないのであれば、この絵画は写真ではないと考える。

エイベルはコステロの提案は二つの選択肢に切り離すことができると言う。

四つの段階を経て出来上がったイメージが写真であるためには:

  1. その前写真的光景を(潜在的には)認識可能な仕方で描かねばならない。
  2. その写真的起源が鑑賞に関与的でなければならない。

エイベルは第一の提案を棄却し、第二の提案を支持する。

第一の提案を棄却する理由は二つある。

まず、ニュー・セオリーの一つの利点は、写真を描写から切り離し、抽象写真を許容しうることにあったが、この提案はそれを台無しにする。

また、この提案はロペスの理論の問題を根本的に解決するものでもない。

エイベルはコステロの架空の事例を一ひねりして考えさせる。

リヒターは先ほどのほぼ灰色一色の抽象画を、記憶を頼りにケルン大聖堂を再び描画し、ぼかし加工を施す前とほぼ同じ画面にして作業を終わらせる。

このイメージはケルン大聖堂を描いているが、写真とは見なしがたいのではないか。

それゆえ、エイベルは第二の提案に沿って追加の制限をかけるべきだと示唆する*6

写真の認識的意義

最後にニュー・セオリスト一般に課せられた一つの大きな課題に目を向けよう。

エイベルがはじめに指摘した写真の芸術的意義と認識的意義の対立を覚えているだろうか。

ニュー・セオリーは正統派では説明しにくい写真の芸術的意義をうまく説明できるが、認識的意義にも対処する必要がある。そうでなければ写真の理論としては片手落ちだ。

ロペスは社会的規範に訴えることでこれに対処する。どういうことか。

まず、さまざまな写真実践が存在し、さまざまな社会的規範の影響下にある。

そのうち、認識的実践は〈正確さに報酬を与え、不正確さを罰し、そうすることで写真が認識的目的を果たすことを保証する規範〉の影響下にある*7。身分証明書における写真の使用を思い出せばわかりやすいだろう。

このとき、規範は写真処理を制限し、信念独立の特徴追跡を保証する。

つまり、写真の認識的意義を信念独立性に訴えて説明する点では、ロペスは正統派理論と同じだが、それは写真の本性に組み込まれたものではなく、社会的規範によって外部から課されたものと考える点で異なる。

ただし、コステロとエイベルが指摘するように、この説明がすべての写真実践の認識的意義に適用されるわけではない。

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Orion Belt

たとえば、医療用写真や天体写真は、部分的には信念依存の特徴追跡を利用することで特定の認識的ニーズ〈しかじかの特徴を容易に識別したい〉に応える。

認識的ニーズは多様であり、ニーズに応じて写真実践にともなう規範も変化する。

しかしいずれにせよ、ニュー・セオリーは社会的規範に訴えることで写真の認識的意義を説明できるのだ。

 

特定の社会的実践を念頭に置くとき、写真の本性に関する思考には社会的規範の影響が紛れ込む。

写真の正統派理論はその罠にかかっているかもしれない。

教訓は、単一の技術が多様な社会的実践を構成することを忘れてはならないということだ。

われわれは素描を芸術と関連づけて考えがちだが、素描にも認識的実践(例:法廷画、考古学における石器の素描の使用)はある。

同様に、写真には認識的実践もあれば、非認識的実践(とりわけ芸術的実践)もある*8

写真のニュー・セオリーはさまざまな実践に現れるものとしての写真の本性を明らかにする。

ひとこと

ニュー・セオリーに出会うまで、私は二つの写真の理論をもっていた。

「真を写す」というその名に体現された写真の民間理論と、それを哲学的に洗練させた正統派理論の二つだ。

今日の写真の芸術的実践を観察するとき、二つの理論は驚くほど頼りにならない。

日本の若手写真芸術家、横田大輔の「Color Photographs」シリーズはこのことを鮮やかに示している。

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横田大輔, Untitled from Color Photographs, 2015.

これは撮り溜めた大量のフィルムをまとめて熱湯で現像し、くっついたものを数枚単位で剥がして作品としたものだ*9

真を写す?信念独立の特徴追跡?この作品に何の関係がある?

(とりわけ寛容なロペスの)ニュー・セオリーは困惑する私に助言する。

横田の作品は写真的プロセスの産物であるがゆえに写真であり、この事実がその鑑賞に重要な仕方で関与的であるがゆえに写真芸術作品でもある。

清々しいほどに明快な答えだ*10

もちろん、ニュー・セオリーは新参者であり、議論は始まったばかりである*11

今後もその動向を追っていきたい。

 

*1:制限的バージョンを採用する論者としてアテンシア=リナレスがいるようだ。

*2:この光の像は通常目には見えない。下で取り上げるカメラ・オブスクラが作り出す光の像は、直接見える珍しい事例といえる。

*3:ロペスの定式化された理論では「電子・化学的出来事」という名前になっている。

*4:他の三つの段階は写真記録的出来事との関係においてのみ写真的である。

*5:ただし、写真的出来事が記録した情報を処理するプロセスをもつかぎりで、記録された情報をごくわずかだとしても伝達しなければ写真とは言えないだろう。

*6:エイベルは実際に改訂版の理論を提出しているが、それはやや込み入っている一方、明確な課題を残すものであるため、ここでは省略する。

*7:規範は写真の認識的意義を直接保証する以外の仕方でも認識的実践に寄与しうるとエイベルは指摘している。

*8:もちろん、認識的実践と美的・芸術的実践は相互排他的ではない。一部の天体写真はその種の事例だと思われる。

*9:美術手帖』2016年9月号収録のインタビューより。

 

美術手帖 2016年9月号

美術手帖 2016年9月号

 

 

*10:横田の作品は記録された情報をごくわずかでも伝達しているかが不明確であり、その点で写真の限界事例なのかもしれないが。

*11:コステロは正統派がまだ完全に退けられたわけではないとして慎重な姿勢を見せている。