Abell, C. 2010. “The Epistemic Value of Photographs.” In Philosophical Perspectives on Depiction, eds. C. Abell and K. Bantinaki, 81-103. Oxford University Press.
写真は非写真的画像(絵画や素描など)と比べて特別な認識的価値をもつように思われる*1。では、その認識的価値は具体的にどんなものか、また、写真のどんな特徴に由来するのか。
これを考察する論文として、今回はキャサリン・アベルの「写真の認識的価値」を紹介したい*2。
写真の本性は描写の哲学においてホットなトピックの一つであり、この論文はその入門的テキストとして読める。
写真の認識的価値を理解する
Thomas Ruff, Porträt (P. Stadtbäumer), 1988.
写真の認識的価値が重宝される場合を考えよう。
証明写真があるのとは対照的に、「証明画」なるものを聞いたことはない。写真は非写真的画像よりも有力な証拠だと見なされている。
また、メルカリで古着を探すとき、われわれは写真の細部まで観察して、傷や汚れの具合を確認するだろう。写真は対象の見落としやすい特徴の識別を可能にしてくれる。
写真がこうした役割を果たすことを可能にする認識的価値の形式を、アベルはEVと呼ぶ。そして、EVは二つの構成要素をもつ。
第一に、写真は有力な証拠となるが、これは写真作成プロセスの信頼性が高いことに起因する。
ある画像作成プロセスの信頼性が高いとは、そのプロセスによって生み出された画像に基づいて対象に関する真なる信念を形成できる可能性が高いということだ。
第二に、写真は対象の見落としやすい特徴の識別を可能にするが、これは写真が豊かであることに起因する。
ある画像が豊かであるとは、その画像が伝達する情報の量が多いということだ。
そんなわけで、写真と非写真的画像の認識的価値の違いはEV、すなわちプロセスの信頼性と豊かさの観点から考察される。
先行研究:写真は透明である
先行研究として、ケンダル・ウォルトンの議論を見てみよう*3。
ウォルトンによれば、写真は望遠鏡や鏡と同様、視覚の補助として用いることができる。
写真を見るとき、われわれはそこに描かれた光景を文字どおり見ている。その意味で、写真は透明である。一方、非写真的画像は透明ではない。
では、透明性の有無は何に由来するのだろうか。ウォルトンは三つの条件を挙げる。
- 対象に反事実的に依存すること。
- 反事実的依存が信念独立であること。
- 表象同士の知覚経験の類似性が対象間の類似性を反映していること。
写真(また望遠鏡や鏡)はこのすべてを満たしているが、非写真的画像は第二の条件を満たしていない。両者の認識的価値の違いはこれに起因するとされる。
ここで問題となる第二の条件、またその前提となる第一の条件の内実を確認しよう*4。
反事実的依存とは、もしその対象が異なるあり方をしていたとすれば、表象も異なるあり方をしていただろうという関係のことだ。
たとえば、私の髪は黒いが、私が髪を別の色に染めたとすれば、私の自撮りは私の髪色に応じて異なる見え方をするだろう。しかし、これは私が髪色を正確に描こうと意図した自画像にも同じことがいえる。
そして、反事実的依存が信念独立であるとは、この依存関係に信念が介入していないということだ。
非写真的画像の場合、作者の信念や意図に応じてその見え方はいかようにも変化するが、写真の場合、作者の信念や意図がどうであれ、その見え方は一定である。つまり、信念が介入していない。
ウォルトンの主張はさまざまな観点から批判されてきたが、写真の認識的価値の説明としては以下の問題を指摘できる。
第一に、写真だけでなく、非写真的画像もしばしば信念独立である。
ドミニク・ロペスによれば、画家が事物の特徴を正確に描こうとするとき、その目と手の協働は心の概念と信念をつかさどる部分を迂回するため、仕上がる画像の対象への反事実的依存は信念独立である*5。
第二に、写真の豊かさについて十分な説明がない。
非写真的画像のEV
ウォルトンをはじめとする先行研究とは違い、アベルは写真技術の進歩と写真作成プロセスの機能の標準化という点から写真の認識的価値を説明しようとする。
まずは非写真的画像のEVを確認しよう。
第一に、非写真的画像の画像作成プロセスの信頼性はどうか。
画像作成者は事物を正確に描こうとするかもしれないし、美的効果や詐称などを目的に、事物を不正確に描こうとするかもしれない。
後者の可能性があることは、非写真的画像のプロセスの信頼性を制限する。
また、正確に描こうとする場合でも、画像作成者の技術などが問題となり、その意図が実現されないことが多々ある。
プロセスの信頼性の点でとりわけ注目に値するのは法廷画だ。
法廷画家はプロとしての規範や失業の危機といったさまざまな要因から、その画像作成プロセスの信頼性は一般の非写真的画像と比べて非常に高い。
しかし、この場合でも、事物を不正確に描いている可能性は完全には排除できず、なおもプロセスの信頼性に悪影響が残る。
第二に、非写真的画像の豊かさはどうか。
非写真的画像の作成者は対象の情報を一度にエンコードすることができず、より多くの情報をエンコードしようとすればするほど、画像作成にかかる時間は長くなる。
これは、画像作成者がエンコードできる情報量について実践的制限を課す。
また、画像作成者が描こうとする事物の多くは、画像作成中にそのあり方を変えてしまうため、実践的制限はより大きくなる。
一部の画像作成者は高度な豊かさを実現させるだけの根気をもつが、写真に匹敵する豊かさをもつ非写真的画像の多くが静物画や写真のコピーであることは偶然ではない。
写真のEV
Nicéphore Niépce, View from the Window at Le Gras, 1826-1827.
豊かさの点で、写真は非写真的画像に課されたいくつかの実践的制限を免れている。
というのも、写真作成プロセスは対象の情報を一度にかつ自動的にエンコードするからだ。
しかし、この特徴だけで写真の豊かさを説明することはできない。初期の写真は細部がぼやけ、また白黒であるため、比較的豊かではなかった。
アベルは写真の豊かさは技術的達成だと考える。
カラーフィルムに代表されるさまざまな技術の進歩により、写真は現在の豊かさを獲得した。
そして、写真が豊かさを増加させる方向へと発展してきたのは、われわれが一般に豊かさを高く評価するためだと考えられる。
では、プロセスの信頼性はどうか。
アベルはプロセスそのものではなく、(機械化による)プロセスの機能の標準化がこれをもたらしたと考える。
つまり、写真作成プロセスは(アナログかデジタルかなど)さまざまあるが、これらはみな特定の対象が与えられると、対象の正確な描写が得られるようになっている。
カメラ設計者は不正確な描写が得られるカメラを設計することもできたのだが、消費者が一般に描写の正確さを重視するため、こうした機能の標準化が生じたと考えられる。
しかし、写真作成プロセスの機械化は完全ではない。
たとえば、現像作業において、写真家は覆い焼きや焼き込みのような技術を用いることができる。そのため、対象の描写はときに不正確である。
とはいえ、写真作成プロセスは非写真的画像と比べて大部分が機械化されており、描写を不正確にする技術を後者ほど容易には利用できない。
したがって、写真作成プロセスの信頼性はより高いものとなる
……はずなのだが。
デジタル写真とその加工技術
近年、写真が意図的に加工される頻度が劇的に増加している。
これはデジタル写真やその加工技術の発展、普及の結果だ。
デジタル写真の作成プロセスは、加工技術の発展により、対象を不正確に描写することがはるかに容易になった。
アベルはデジタル写真の加工技術を二種類に分けている。
第一に、対象への反事実的依存性を維持しながら、形状や色彩を規則的に変更する技術がある。これは画像編集ソフトのフィルター機能を思い浮かべればよいだろう。
こうした技術は覆い焼きや焼き込み、またカラーフィルターの使用とパラレルなものだが、非常に気軽に使用できるため、写真一般の認識的価値を下げてしまう。
第二に、写真をピクセル単位で自由自在に加工できるレタッチ技術がある。
こうしたレタッチ技術は、対象への反事実的依存性を破壊し、写真を少なくとも部分的に非写真的画像にする。言い換えれば、これは写真に上塗りするような行為だ。
それゆえ、本来ならば、この種の技術が写真一般の認識的価値を下げることはない。
ところが、その産物は写真と間違われやすく、われわれは写真が一般にもつ認識的価値をそれらに帰属してしまう。
今日のデジタル写真の加工技術の発展は、写真と非写真的画像のEVの差をより小さなものにしているかもしれない。
ひとこと
写真の哲学では、いかにも哲学者らしいことに(?)、写真の信念独立性をめぐる議論が主流だが、写真の豊かさに目を配っているところがアベルの議論の特徴だと思う。
また、写真の哲学の知見は写真と非写真的画像が、われわれの常識的把握以上に距離が近いらしいことを明らかにしているが、アベルはその距離を、写真実践に寄り添いつつ具体的に考察していて良い。
デジタル写真の身分は写真論の大きな問題となっているが、関心のある人は写真の哲学を覗いてみると収穫があると思う*6。
*1:とはいえ、写真はあらゆる点で非写真的画像よりも認識的価値が高いわけではない。非写真的画像は写真では果たせない認識的役割を果たすことができる。たとえば、写真は特定のタンポポを描くことしかできないが、植物画はタンポポという種に典型的な特徴を、個別事例がもつ偶然の特徴から切り離して描くことで、タンポポという種を描くことができる。
*2:この論文はすでに高田敦史さんが簡潔に紹介している。
Catharine Abell「写真の認識的価値」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
*3:アベルはウォルトン以外にもロバート・ホプキンス、ジョナサン・コーエン&アーロン・メスキンの見解を取り上げているが、メンドーなので省略。
*4:第三の条件について説明すると、これを設けることで、対象への反事実的依存が信念独立であるような言語的表象をはじくことができる。たとえば、ヒョウとチーターは似ているが、「ヒョウ」という文字列と「チーター」という文字列は似ていない。一方、画像はヒョウとチーターの類似性を反映している。
*6:僕は読んでいないが、『Photography and Philosophy』という論文集がある。ウォルトンの古典的論文も入ってるよ。
Photography and Philosophy: Essays on the Pencil of Nature (New Directions in Aesthetics)
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