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スフレを穴だけ残して食べる方法

「自己知の何が特別か:自己知の哲学入門②」(カシーム・カサーム)

 

前回、カサームは自己知の哲学を案内するにあたって、自己知に対する一般的な関心と哲学者の関心にはギャップがあると指摘し、この点を説明するために、自己知を二種類(些細な自己知と実質的な自己知)に区別した。

哲学者は些細な自己知を特別なものと見なしているが、それの何が特別なのか、という点から議論は進んでいく。

今回扱う範囲は、自己知の哲学の標準的な議論を概観するうえで役に立つだろう。

 

なお、今回訳文に設けたリンクや脚注はすべて訳者によるものである。

以下、訳文。

自己知の特別さ

私たちを取り囲む世界に関する信念は誤りうる(fallible)。雨が降っていないのに、降っていると信じてしまうかもしれない。靴下を履いていないのに、履いていると信じてしまうかもしれない。このような事柄について誤ることはほとんどないように思われるかもしれないが、これらの信念はエラーを寄せつけないものではない。しかし、次に、あなたは靴下を履いているかという質問の代わりに、自分は靴下を履いているとあなたは信じているかという質問を考えてみよう。自分は靴下を履いているというあなたの信念は誤っているかもしれないが、自分は靴下を履いていると信じているというあなたの信念は誤りえないと、多くの哲学者は考えている。つまり、あなたは自分が何を信じているかについて誤りえないのだ。同じことが、他の心の状態にも言える。たとえば、頭痛がするとあなたが思ったとしよう。それについて、あなたが間違っていることなどありえるだろうか?もちろん、そんなことはない。なぜ頭が痛いのかについて間違うことはあるが、頭が痛いかどうかについて間違うことはありえないのだ。このような心の状態についての知識は無謬(infallible)である、と言い換えてもよい。

現在では、些細な自己知を特別なものと見なす哲学者でも、それが無謬であるという考えには懐疑的なことが多い。かれらが言うには、自分の心の状態に関して本当に間違ってしまうということは可能だが、そのような間違いは異常であり、また、自分が信じ、欲し、感じていることに関する私たちの信念は間違っていないと推定される。言い換えれば、厳密には無謬でないにせよ、ある種の自己知は権威をもつ、ということになる。

さらに、私が「些細な」自己知と呼んでいるものは、通常、行動証拠やその他の証拠に基づかない点で特別だと主張されることも多い。自分の行動を観察しなくても、自分は靴下を履いていると信じていることや、今夜映画館に行きたいことはわかる。これらは推論によるものではなく、あなたが「直接(immediately)」知っていることなのだ。通常、自分は靴下を履いていると信じていることを算出する必要はないし、証拠も関わってこない。ある種の自己知がもつこの直接性は、自己知が特別であることを示すもう一つの側面である——多くの哲学者はそう考えてきた。

もし些細な自己知がこれらの点のどれか、またはすべてにおいて特別だとすれば、それは実質的な自己知とも、自分以外の心についての知識とも、著しく異なることになる。たとえば、自分の性格特性についての知識を実質的自己知の一例として、優しさがそのような特性の一つであるとしよう。自分が優しい人間であるかどうかについて、あなたは無謬だろうか?もちろん、そうではない。自分は優しいと心から信じていても、それは間違っているかもしれない。自分の性格特性に関するあなたの信念は間違っていないと推定されるという意味で、あなたは自分の性格特性に関して権威をもつだろうか?もちろん、そうではない。私たちは誰でも、自分のことを良く思いたいもので、このことは、自分が本当はどのような人間なのかを私たちは知っているという推定を脅かす。さらに、自分の性格を知るには、行動証拠を含め、証拠が必要であり、このことは、自分の性格についての知識が直接性をもって得られるものでもないことを意味する。

自分以外の心についての知識も同様である。他者が何を考え、何を感じているかを知るためには証拠(通常は行動証拠)が必要であり、それらの事柄に関するあなたの信念は、自己知が権威的であるようには、無謬でもなければ権威的でもない。つまり、Paul Boghossianが言うところの、「自分の考えを知る方法と、他者の考えを知る方法との深い非対称性」が存在している。自己知の哲学的説明は、必ずこの非対称性を認め、説明しなければならない。

以上、些細な自己知に対する哲学的関心について、その重要性よりもむしろ、それについて想定される特別さに基づいて説明してきた。これは、些細な自己知に注目する哲学者が、些細な自己知を重要でないと考えているということではない。たとえば、Sydney Shoemakerは、私が「些細な」自己知と呼ぶものが合理性にとって必要であると論じている。実際にそうであるかどうかは単純な問題ではなく、合理性の本性に関する非常に難しい問題に左右される。自己知が合理性の前提条件であるというテーゼは、依然として大きな論争を呼んでいると言っておけば十分だろう。

自己知はいかにして可能か?

あなたがこれまでの議論を受け入れ、些細な自己知がその特別さゆえに哲学的に興味深いものであるという考えに納得したとしよう。そうすると、次のような疑問が自然に生じる。権威的かつ直接的な自己知はいかにして可能か?また、そのような自己知の限界はどのようなもので、何がその権威性と直接性を説明するか?これらの質問のうち、少なくとも哲学者にとっては、最初のものが喫緊の課題であるように思われる。なぜなら、一部の自己知が権威的かつ直接的である(と想定される)ようには、私たちの知識の大半は権威的でも直接的でもないからだ。したがって、ここには説明すべきことがある。ある種の自己知が特別であることを指摘するだけでは十分ではない。私たちは、この種の自己知がいかにして可能かを理解したいのだ。

一つの見通しは、権威的かつ直接的な自己知がいかにして可能かを、その起源を特定することで、つまり、私たちがいかにしてそれを得るかを解明することで説明することだろう。一つの提案は、私たちは内観(introspection)によって自分の心を知るというものであり、ここで、内観は内的知覚の一形式と見なされる。これは自己知の知覚モデルだ。もう一つの可能性は、私たちは推論ないし推理によって自分の心を知るというものである。これは自己知の推論モデルだ。これらのモデルはともに多くのバリエーションをもち、相互に排他的ではない。もし知覚が推論をともなうならば、自己知が知覚的であると言うことは、それが推論的であると言うことと両立する。しかし、現在の目的のために、これらのモデルを別々に考えてみよう。

自己知の知覚モデル

自己知の知覚モデルは、17世紀にはJohn Lockeが支持し、18世紀にはImmanuel Kantが複雑化を施しながらも支持したものである。20世紀には、オーストラリアの哲学者D. M. Armstrongが、1968年に出版された『心の唯物論』において、知覚モデルの著名な提唱者となった。通常、哲学者が知覚について語るとき、かれらは感覚知覚、つまり、見る、聞く、触る、味わう、嗅ぐことを意味している。この説明において、内観とは一種の内なる視覚であり、通常「心の目」と呼ばれるもので見ることである。あなたが自分の信念、欲求、感覚などを知るのは、内観によって、言い換えれば、心の目で自分がそれらをもっていることを覗き見ることによってである。

このモデルは自己知の直接性を説明するのに適しているが、その権威性を説明するのにはあまり適していない。もし自分が靴下を履いていることを、あなたが目で見ることによって知るのであれば、あなたの知識は「推論的」ではなく「直接的」だと(議論の余地はあるが)考えられるかもしれない。それゆえ、もし自分が靴下を履いていると信じていること、頭が痛いことを「知覚」できれば、それによって得られる自己知(自分が靴下を履いていると信じていることや頭が痛いことについての知識)も、「直接的」だと言えよう。

知覚的知識が権威をもつと考えないかぎり、知覚モデルは自己知の権威性を説明するのにあまり適していない。知覚モデルには他にも多くの反論があるが、それらはすべて、私たちが自分の心を知るための手段は、知覚とは根本的に異なるという考えに基づいている。内観は知覚とはまったくの別物で、私たち自身の心の状態は、靴下のようなものが知覚されるようには知覚されない、と反論は進む。Sydney Shoemakerは、1996年に出版された『一人称視点およびその他の論考』において、知覚モデルに対する近年の有力な批判者となっている。

自己知の推論モデル

自己知の推論モデルによれば、私たちは推論を通して自分の信念、欲求、感覚を知る。何からの推論か?私たちが利用できるさまざまなタイプの証拠からだ。哲学者のGilbert Ryleと心理学者のDarryl Bemはともに、私たちは行動証拠に頼っていると主張している。Ryleは、その名高い『心の概念』(1949年)において、この見解を擁護している。この見解は、自分がどう感じているか、何を考えているかを知るために自分の行動を観察する必要はないということを根拠に、自己知の哲学者から広く非難されてきた。しかし、心理学的証拠を含む他の種の証拠からの推論によって自己知が獲得される可能性はなおも残されている。これは、『人間のための自己知』の第11章と第12章において擁護されている見解である。

推論モデルの変種として、自己知は「透明法(Transparency Method)」と呼ばれるものを利用することで獲得されるという見解もある。この見解は、乱暴に言えば、P(自分が靴下を履いていること)を信じているかどうかを確認する方法は、その信念をもつことが合理的であるかどうかを自分に問うことであるとする。この問いに対する答えが「はい」であれば、自分はPを信じていると結論づけることができる。この結論を導くとき、あなたは〈自分が何を信じているかは、自分が何を合理的に信じるべきかによって決定される〉という前提に立っている。これはときに自己知の合理主義的構想と呼ばれるもので、その主唱者はハーバード大学の哲学者、Richard Moranである。彼の著作『権威と疎外』(2001年)は一読の価値がある。Moranの批判者では、『表現と内なるもの』(2003年)を著したDavid Finkelsteinが注目に値する。

推論モデルは、自己知が通常は直接的であるという考えと対立する。推論的知識それ自体に特別なものはなく、自分以外の心についての知識も推論的であるため、推論モデルの支持者は自己知の特別さに対して懐疑的である傾向にある。かれらは自己知が他者の心についての知識とは種類が異なることに疑いをもっているのだ。ただし、Richard Moranは、自身の合理主義的アプローチが自己知の権威性と直接性を説明できると(私の考えでは誤って)主張している。この問題については、『人間のための自己知』の第9章でより詳しく論じている。合理主義者が自らを推論主義者とは見なしていない点は補足に値するが、透明法が非推論的な自己知をいかにして提供できるかを理解するのは難しい。推論的知識と非推論的知識の区別が非常に曖昧であることもあり、これは依然として厄介な問題である。

合理主義の問題点

合理主義をより複雑にしているのは、人間の合理性が不完全であり、ゆえに私たちの信念、欲求、恐れなどが合理的にあるべき姿をしている保証はない、という点である。たとえば、午後にジムに行きたいかという問いについて考えよう。あなたは医者からもっと運動する必要があると言われているため、ジムに行くことは合理性の点であなたが欲するべきことであるかもしれない。しかし、残念ながら、午後にジムに行くことは、実際にはあなたが一番やりたくないことかもしれない。これが正しければ、合理性の点でジムに行くことを欲するべきかどうかを自問することは、ジムに行きたいかどうかを把握するための間違った方法であるように思われる。これはちょうど、合理性の点で浴槽にいるクモを恐れるべきかどうかを自問することが、クモを恐れているかどうかを確認するための間違った方法であるのと同じである。あなたはクモを恐れるべき理由などないことに完全に気づいているが、なおもクモを恐れているかもしれない。

透明法に一番向いているケースは、自分の信念についての知識だ。もしあなたが、自分は靴下を履いていると(あらゆる証拠がそう示しているために)合理的に見て信じるべきだと認識しているならば、自分は靴下を履いていると信じていると結論づけてもおそらく問題はない。そうだとしても、圧倒的に不利な証拠や反証に直面しているにもかかわらず、あなたが自分にとって重要な特定の信念を保持し続ける可能性を排除することはできない。心理学者が「信念固執(belief perseverance)」と呼ぶこの現象は、自分が信じるべきものは何かについて反省することで、自分の信念を知ることができるという考えに問題を引き起こす。

ここでのポイントは、誤りうる人間である私たちは、たとえ何が合理的かを自分で判断するとしても、考え、欲し、恐れることが合理的であることをつねに考え、欲し、恐れているとはかぎらない、ということだ。合理主義のさらなる問題は、自分の態度が合理性の点で何であるべきかを知るよりも、自分の態度が何であるかを知る方がたいてい容易であるという点にある。合理主義はせいぜい、その信念やその他の態度がつねに合理的にあるべき姿をしている、神話上の合理的哲学人(homo philosophicus)のための自己知の説明である*1。合理主義は、人間のための自己知の説明としてはあまり良いものではないように見える。この点については、『人間のための自己知』で事細かに説明している。

 

【つづく】

*1:「合理的哲学人」の元ネタは「合理的経済人(homo economicus)」のようだ。