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スフレを穴だけ残して食べる方法

幸福の手段にすぎない:美的価値の規範的源泉について

ワークショップ「作者の意図、再訪」が無事閉幕しました。

上記リンク先の記事の一番下に、僕の発表「創造的行為における意図とその明確化」の発表資料を置いているので、気になる方は確認してみてください。

ようやく多少余裕ができたので、先日応用哲学会で行われた銭清弘さんの発表「美的に良いものはなにゆえ良いのか:モンロー・ビアズリー再読」に触発されて考えたことを書いてみます。

美的価値の規範的源泉の問い:三つの立場

私の目的は、美的価値の規範的源泉の問い幸福論の接点を明らかにすることで、この問いの意義を明らかにすることである。

まず、美的価値の規範的源泉をめぐる議論について、私なりの素描を与えてみよう。

エーデルワイスは可憐だ。このとき、私はエーデルワイスを眺める理由をもつ。

可憐さは美的価値であり、美的価値は眺める、飾る、愛でる等々の理由を与える。

では、なぜ美的価値は理由を与えるか、これが美的価値の規範的源泉の問いである。

価値をもつこととは理由を与えることにほかならないとする影響力のある分析を前提にすれば、これは〈美的価値を価値にするものは何か〉とも言い換えることができる。

美的価値の規範的源泉をめぐる議論は、従来の快楽主義に新参の反快楽主義が挑戦するかたちで進められている。

しかし、その対立点を理解することは予想されるほど容易ではない。

両陣営が認める共通の観察は以下のものだ。

  • 共通の観察
    美的価値に関わるとき、一般に、私たちは快楽を得ることができる。

この観察に基づいて、快楽主義者は主張する。

  • 美的価値を価値にするものは快楽を与える能力である。

この主張に挑戦するための一つの方法は、共通の観察の記述に現れる「一般に」という修飾に注目し、例外を示すことである。

その美的価値に関わるとき、快楽を得ているとは言えないような事例はないか。

実際には、例外と言うにはあまりにも多くの事例を容易に挙げることができるはずだ。

たとえば、『ゲルニカ』は鑑賞者を揺さぶり、高い美的価値をもつように思われるが、この作品を鑑賞する際の経験は快いとは言いがたいかもしれない。

快楽主義者の典型的な反応は、『ゲルニカ』が美的価値をもつことを認め、自分たちが扱っている「快楽」とは、チーズケーキやマッサージによって得られる種のものだけでなく、価値ある経験一般のことだと弁明することだ。

なるほど、『ゲルニカ』を見る経験は「快い」とは言えないかもしれないが、価値ある経験には違いない。

快楽主義に挑戦するために、美的価値をもつが、価値ある経験を与えない事例の捜査を続けることもできるだろう。

しかし、じつのところ、今日の反快楽主義の勃興は基本的にこの路線から生まれたわけではない。

共通の観察の記述を論争的なかたちに改変してみよう。

  • 論争的テーゼ
    美的価値に関わるとき、つねに、私たちは快楽を得ることができる。

興味深いことに、反快楽主義者はこのテーゼを受け入れる用意がある!

なぜなのかと不思議に思われるかもしれない。

ポイントは、二種類の関係の区別である。

快楽主義とは、美的価値と、快楽を与える能力に構成関係を認める立場だ。

  • AはBによって構成される=
    AはBにほかならないか、AはBに基礎づけられる。

つまり、快楽主義者によれば、美的価値は快楽を与える能力にほかならないか、快楽を与える能力に基礎づけられる。

ここで注意すべきは、快楽主義が共通の観察はもちろん、論争的テーゼからも、一種の飛躍を行うことなしには生まれない理論だという点である。

  • 論争的テーゼ
    美的価値に関わるとき、つねに、私たちは快楽を得ることができる。

このテーゼは美的価値と、快楽を与える能力に構成関係があると示したり、帰結したりするものではない。

構成関係の代案は、よりはるかに知られた関係の一種、因果関係である。

論争的テーゼの因果的解釈によれば、美的価値はつねに快楽を引き起こす。

美的価値がつねに快楽を引き起こすとき、美的価値が快楽を与える能力にほかならないとか、快楽を与える能力に基礎づけられると考える必要はない

規範的源泉の問いは、美的価値を価値にするもの、すなわち、その価値としての本質を問うものであった。

ここで、反快楽主義者は、美的価値が快楽をもたらすとしても、美的価値を価値にするものは快楽ではなく、快楽は美的価値の副産物でしかないと主張する余地が生まれる。

たとえば、美的価値は、私たちを日常生活の実践的関心から解放し、自由にしてくれるとは考えられないか。

認識的価値や道徳的価値など、他の価値はそのような能力をもたないとするとどうか。

美的価値を真に価値にするものは解放的自由を与える能力であり、快楽は副産物でしかないと言いたくなるだろう。

もちろん、解放的自由に関する以上の見解の是非は検討を要し、解放的自由への訴えは反快楽主義者にとって一つの選択肢でしかない。

私たちは何ゆえ美的価値を追求するのか。

ポール・ゴーギャンがそうしたように、何かを達成するためか、互いの個性を尊重し、育むためか、それとも創造性を発揮するためか、さまざまな選択肢が考えられる。

私たちは快楽を与えない美的価値の事例の捜査から、私たちが美的価値を追求する真の理由の捜査へと移行することができる。

ただし、反快楽主義者はこのような路線をとらないこともできる。

  • 原初主義
    美的価値の規範的源泉の問いを拒否する。

真理は価値だが、このことは他の何かに訴えて説明する必要のない原初的事実だと思う人がいるかもしれない。

美的価値の原初主義もまた、美が価値であることはそのような原初的事実であるとし、美的価値の規範的源泉の問いを拒否する。

原初主義者の目には、快楽主義者も、私たちが美的価値を追求する真の理由を捜査する反快楽主義者も、還元的アプローチを採用している点で同じ穴の狢なのである。

そんなわけで、美的価値の規範的源泉の問いに関して、快楽主義還元的反快楽主義原初主義の三つの立場があると整理することができる。

説明の打ち止め

銭さんの発表に戻ろう。

銭さんの目的は近年の美的価値論に照らしてモンロー・ビアズリーの議論を読み直し、そこから洞察を引き出すことである。

そんななか、私の関心は、いわば前座のかたちでなされた、還元的反快楽主義をめぐる小さな議論にある。

「達成や能動的な美的経験や美的自由や自律性の発揮が、望ましい事態なのはなぜ?」と問われると、つまるところどれも広義の快楽を与えるからだ、と言いたくなるような気もする。

銭さんはここで、還元的反快楽主義者が挙げる快楽に代わるアイテム(達成、能動的な美的経験、美的自由、自律性)を再び快楽へと還元しようとしている。

銭さんの挑戦に対して、還元的反快楽主義者はどのように応答できるだろうか。

一つの方法は、快楽に代わる各々のアイテムについて原初主義を唱えることである。

達成/能動的な美的経験/美的自由/自律性が価値であることは原初的事実であって、他の何かに訴えて説明する必要はない、と。

この応答の問題は、なぜそこで説明が打ち止めされるかが定かではないことにある。

たとえば、達成は一般に充実感をともなうが、充実感は「広義の快楽」ではないか。

私には銭さんの問題意識がよくわかる。

しかし、私は快楽主義にも疑問がないではない。

告白しよう。

直観的に、私は(一つの例外を除いて)価値の原初主義一般を受け入れることが困難である。

そして、その例外は快楽ではない。

〈なぜそれは望ましいのか〉という問いを、私は快楽にも投げかけたくなる。

快楽を価値にするものは何か、なぜ快楽を追求すべきか。

この問いに対して、銭さんはどのように答えるだろうか。

快楽の原初主義を唱えるだろうか。

その場合、私はなぜそこで説明が打ち止めされるかが気がかりだ。

もちろん、銭さんが実際に快楽の原初主義を支持するかは定かではない。

ともあれ、美的価値の規範的源泉の問いに対する応答はどれも、なぜそこで説明が打ち止めされるかという疑問を潜在的に突きつけられるのである。

幸福の形式的定義

説明の打ち止めへの懐疑に対処するための手がかりは幸福論にあると私は考える。

幸福とは何か。

この問いをめぐって、三つの立場がよく知られている。

  • 快楽説
    快楽である。
  • 欲求充足説
    欲求の充足である。
  • 客観的リスト説
    一連の客観的に価値あるアイテム(候補:健康、友情、名誉など)である。

三つの立場のどれかが正しければ、それを参考に幸福の実現を図ることができる点で、これらは幸福の実質的定義である。

とはいえ、論争は長引き、どの立場が正しいか、結論は出ていないようだ。

ここで、アリストテレスに由来する幸福の形式的定義が参考になる。

  • 形式的定義
    幸福とは、〈なぜそれは望ましいのか〉という問いへの説明が打ち止めされる、究極的価値のことである。

任意の価値について、〈なぜそれは望ましいのか〉と問い続けていくと、いずれもはや説明を与えることのできない究極的価値にたどり着くだろう。

その価値の本性が何であれ、それを幸福と呼ぼう、というのが幸福の形式的定義だ。

この定義は、幸福の実現を図るための参考になるものではないが、人生の究極の目的は幸福であるという一般的理解を適切に反映している。

原初主義が適用される唯一の価値とは、この形式的定義の観点から理解された幸福だと私は考えている。

なぜ真理は望ましいかと聞かれたら、幸福につながるからだと私は答える。

「真理」は諸価値に、たとえば、本稿の主題である美に代えてもよい。

結果として、「美は幸福の約束にすぎない」というスタンダールのテーゼをひねって、私たちは「美は幸福の手段にすぎない」と言うことができる(なお、次節の議論が示すように、「手段」という語は代替可能性を含意しない)。

そして、これは、幸福以外に原初的価値を認めず、幸福を究極的価値と定義した場合の当然の帰結である。

諸価値は幸福の手段にすぎない。

美と幸福の結びつき方

美的価値の規範的源泉の問いに戻ろう。

私たちは説明の打ち止めへの懐疑にいかに対処すべきか。

銭さんは、還元的反快楽主義者が挙げるアイテムを再び快楽へと還元しようとしているわけだが、なぜ快楽に至った時点で説明を打ち止めしなければならないのか。

一つの可能な応答は、幸福の快楽説に訴えることだ。

快楽は幸福(=究極的価値)にほかならないため、説明の打ち止めは正当である、と。

同様に、原初主義者は、客観的リスト説に訴えることで、美は幸福を構成する客観的に価値あるアイテムの一つだと主張し、説明の打ち止めを正当化できる。

実際、美は客観的リストの常連候補なのである。

興味深いことに、説明の打ち止めへの懐疑に対処しようとすると、幸福論へと踏み込むことになるようだ。

美的価値の規範的源泉を問うことは、美と幸福の結びつき方を問うことに等しい。

この点はきわめて重要である。

じつのところ、私たちは美的価値の規範的源泉の問いについて、一般的にして不可謬な見解をすでに手にしている。

美的価値を価値にするものは何か、それは幸福に寄与する能力である。

この幸福説は、幸福以外に原初的価値を認めず、幸福を究極的価値と定義した場合、諸価値に正しく適用される。

真理を価値にするものは何か、それは幸福に寄与する能力である、というように。

どうやら、美的価値の規範的源泉の問いに答えることは容易らしい。

私たちは、一般的であり、正しくもある美的価値の幸福説を手に入れた。

しかし、残念なことに、幸福説は情報量に乏しい。

ここで、私たちは改めて問わねばならない。

美的価値の規範的源泉の問いの意義とは何か。

私たちはこの問いに答えて何がうれしいのか。

私なりの答えは、すでに示したように、ごく単純なものである。

たしかに、美的価値は、それが価値であるかぎり、幸福と結びついている。

しかし、美的価値と幸福の具体的な結びつき方は定かではないため、これを浮き彫りにする必要がある。

結局、規範的源泉の問いは、美的価値が幸福に寄与する方法について、より良い理解を得るための立脚点となるかぎりで、意義をもつのだ。

そして、理論において、一般性と具体性はトレードオフの関係にある。

還元的反快楽主義者の諸説を快楽主義に回収しようとする銭さんの構想は、成功すればエキサイティングなものになるに違いない。

美的価値の快楽説が幸福の快楽説と手を携え、勝利を果たすことは十分にありうる。

しかし、そこで生まれる快楽主義的説明は高度に抽象的な理論になるだろう。

私の場合、ニック・リグルの理論に対する伊藤迅亮さんの一連のツイートによる弁明にうなずき、一般性を欠いていても、美が幸福に寄与する独特の方法を具体的に描写する理論の方に関心が向く傾向にある。

これは私の趣味であり、それ以上ではない。

一般志向の理論と具体志向の理論、双方がともに発展していくことを望む。