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スフレを穴だけ残して食べる方法

ティ・グエン「芸術はゲームだ」

松永伸司『ビデオゲームの美学』の帯には「ビデオゲームは芸術だ!」というキャッチフレーズが用いられている(松永さんではなく編集者の言葉らしい)。

今回訳出して紹介するのは、これとは対照的に、「芸術はゲームだ」と題されたティ・グエンの記事である(なお、ビデオゲームではなく広義のゲームが扱われている)。

グエンの問いは簡単かつ素朴だ。

芸術鑑賞において、なぜ私たちは正しさ(正しい理解や判断)に関心をもつのか。

なぜ正しさを気にせず、自由に、好きなように楽しまないのか。

この問いに対して、グエンはゲームにおけるモチベーション構造を分析し、それを芸術鑑賞に応用することで応答を試みている。

議論を通して浮かび上がるのは、芸術鑑賞とゲームプレイとの共通点、また芸術鑑賞と正しさに関心をもつ他の多くの領域(科学や倫理など)との相違点である。

議論の過程でなされる、「バカゲーム」と呼ばれる種のゲームやロッククライミングの味わいに関する分析も楽しいのでお見逃しなく。

なお、原文における斜体は太字に、リンクはそのまま訳文に反映している。

(「セルアウト」という語には訳者が解説記事のリンクを付した。)

最後に、本ブログで過去にグエンの文章を紹介した記事のリンクを貼っておこう。

以下、訳文。

芸術はゲームだ

私たちは芸術を理解しようと奮闘する。細部に目を凝らし、最高の解釈を探求する。ある作品が素晴らしいのか、うわべを取り繕っているだけなのか、議論を交わす。「最高傑作」のリストを交換し、その順位について難癖をつけ合う。しかし、私たちがこれほど正しい理解に大きな関心をもつようにみえるのはなぜだろうか?ただリラックスして、手当たり次第に楽しめるものを楽しむのではいけないだろうか?

私の提案はこうだ。真に重要なのは奮闘である。私たちは作品を理解するために作品を調べ、作品について長い会話を交わすわけではない。実際にはその逆だ。私たちが作品を理解しようと奮闘するのは、そのような楽しい会話をしたり、驚きに満ちた調査に駆り立てられたりするためである。私たちはこうしたプロセスを楽しむために芸術鑑賞の慣習を形成してきたのであり、奮闘がもたらす満足、つまり、慎重な注意、解釈、評価がもたらす快を得るために芸術作品に取り組む。以上の点で、芸術鑑賞はゲームに似ている。ゲームでは、ゴールや制限がゲーミング活動を形成し、それをプレイヤーが夢中になれるような奮闘へと微調整する。

芸術鑑賞を一種のゲームとして考えることは、芸術鑑賞の奇妙に入り組んだ「ルール」を理解するうえで役に立つ。とりわけ、芸術鑑賞における主体的判断の価値をめぐる長年の議論の解決に役立つ。問題はこうだ。芸術鑑賞には深い緊張関係にあると思われる二つの規範が存在する。一方で、私たちは正しい判断をすることに関心があるようにみえる。自分の信念や判断が作品の細部に合致することを望むのだ。他方で、私たちは心の根本的な主体性に価値を置いているようにもみえる。たとえば、私たちは自分でゴッホを判断し、その奇妙な、ねじれ、沸き立つ生気を経験することが求められる。また、カニエの新しいアルバムが高く狙いをつけすぎた悲劇的失敗なのか、誤解された傑作なのか、それとも怠惰なセルアウトなのか、自分で判断することが求められる。私たちは、他人の証言だけで、この作品は美しい、失敗している、などと断定すべきでないと考えているように思われる。芸術作品は自分自身で判断すべきなのだ。

しかし、これら二つの要求は深く対立しているようにみえる。知的生活の他の部分では、正しさへの関心が主体性の要求に勝ることが多い。正しい理解を望むのであれば、専門家に委ねるのが普通だ。どのような薬を飲むべきかについては医師に、車のどこを修理すべきかについては整備士に委ねる。科学の専門家でさえ、他の何千人もの専門家に頼らなければならない。では、私たちが芸術鑑賞において本当に正しい理解に関心をもっているならば、同じく専門家に従うべきではないのか?結局、ベートーヴェンは豊かできらめく感情や反応の数々を私に与えるかもしれないが、ベートーヴェンがやっていることの多くを理解するために必要とされる音楽理論について、私はほとんど知らない。もし私がベートーヴェンについて正しく判断したいのであれば、クラシックの専門家に委ねればいいのではないか?しかし、そうしてしまうと芸術鑑賞の活動全体について重要な何かを見逃してしまうように思われる。この問題には一つの伝統的な説明がある。これによれば、ここで見逃されているのは美的判断の本質的な主観性である。つまり、美的判断が私自身の主観的反応の表出にすぎないならば、美的判断を他人に委ねるのはばかげている、というわけだ。

私はここで、まったく異なる説明を与えようと思う。美的判断に客観的なものが存在するのは十分にありえることだ。ただし、私たちが正しい答えを追求する理由は、芸術鑑賞と他の多くの客観的領域とでは異なる。科学の場合、私たちは実際に正しい答えを得ることに関心をもつ。しかし、芸術鑑賞の場合、私たちは正しい答えを得ようとする活動に取り組むこと、すなわち、見る、探す、想像する、解釈する、という一連のプロセスを辿ることに最大の関心をもつ。ゆえに、専門家任せにはしないのだ。正しい判断は芸術鑑賞のゴールだが、目的ではない。芸術鑑賞の価値は、実際に正しい判断を行うことにではなく、正しい判断を得ようとする活動にある。

ここではゲームのたとえが有益だ。パズルゲームでは、私たちはネットで答えを調べて済ませようとはしない。また、すでに謎を解いたことのあるエキスパートの意見に従うこともしない。とはいえ、エキスパートの解答が主観的だからというわけではない。多くの場合、パズルには客観的に正しい単一の解答が存在する。そして、もし正しい解答を得ることだけが重要なのだとすれば、可能なかぎり効率的な手段(たいていはネット検索)で解答に辿りつくべきだ。しかし、多くの場合、私たちはネット検索で済ませようとはしない。この活動の要点は自分で正しい解答を見つけ出すことにあるからだ。

この点をよりよく理解するには、ゴールと目的を区別する必要がある。活動のローカルゴールとは、活動中にあなたが目指し、追求するもののことである。活動の目的とは、そもそもその活動をあなたが始めた理由であり、その活動に見いだす真の価値のことである。一部のプレイヤーにとって、ゴールと目的は同じであるか、近似している。たとえば、オリンピック選手は本当にただ勝ちたいからこそ勝とうとし、プロのポーカープレイヤーは勝って得られるお金が欲しいから勝とうとする。しかし、他の多くのプレーヤーにとっては、ゴールと目的は大きく異なる。多くの場合、私がロッククライミングに行く目的は、頭のなかで延々と続くおしゃべりな声を黙らせて、リラックスすることにある。しかし、リラックスするためには、岩の頂上に到達するというローカルゴールに身を投じる必要がある。クライミングに完全に没頭するためには、活動に応じた献身が必要であり、その献身こそが頭をすっきりさせるのに必要なものである。しかし、より広い視点に立つと、頂上に到達するかどうかはそれほど気にならない。仮に失敗続きの一日に終わったとしても、精神的にリフレッシュして帰ることができれば、それは良い一日なのだ。

したがって、ゲームを遊ぶ際には二つのまったく異なるモチベーション構造が存在する。第一に、人は「達成プレイ」、つまり、〈勝つこと自体(または金銭など、勝利がもたらす何か)の価値のためのゲームプレイ〉に取り組むことができる。第二に、人は「努力プレイ」、つまり、〈奮闘(またはフィットネスやリラクゼーションなど、奮闘がもたらす何か)の価値のためのゲームプレイ〉に取り組むことができる。注意すべきは、努力プレイに取り組む者が望ましい奮闘を行うには、実際に勝とうとしなければならない点である。とはいえ、そうした人々にとって重要なのは勝つことではなく、プレイすることである

もし努力プレイの可能性を疑うなら、「バカゲーム」とでも呼ぶことのできるゲームの存在を考えてみよう。これは第一に、失敗が楽しく、第二に、楽しむためには勝とうとしなければならないゲームのことである。たとえば、ツイスターや伝言ゲーム、また飲み会で行われるゲームのほとんどがこれにあたる。ツイスターでおもしろいのは転んだときだ。しかし、わざと転んではおもしろくない。転んでおもしろいのは、本当に失敗したときだけであり、そして心から成功しようとしていたときだけが、本当に失敗したときなのである。

バカゲームは努力プレイの可能性を明らかにするものだ。私たちはそこで成功を追求するが、成功に価値を置くわけではない。むしろ、思わず笑ってしまうような失敗を経験することが目的なのである。議論を一般化しよう。ゴールと目的の違いは、あらゆる種類の楽しいゲームに見いだすことができる。たとえば、友人とボードゲーム大会を開いたとしよう。多くのゲームは、プレイヤーが闘争に夢中になってはじめて楽しいものになる。楽しむためには、本気で勝とうとしなければならない。とはいえ、もし負けたとしても、その夜を無駄にしたことにはならない。本当に重要なのは、勝ち負けではなく、勝とうとする試みを楽しんだかどうかだ。そう思わないのは、真の負けず嫌いだけだろう。

努力プレイはモチベーションの逆転をともなう。日常生活では、目標のために手段を選ぶ。一方、努力プレイでは、手段のために目標を選ぶ。私たちはプレイヤーが仕向けられる奮闘に応じて、ゴールを選ぶのだ。

私が提案したいのは、芸術鑑賞も努力志向の活動の一種だということだ。私たちは芸術作品について正しい判断を得ることを目指すが、正しい判断を得ることは本当の要点ではない。もし正しさが真の目的であれば、正しい答えを得るために全力を尽くすべきであり、その場合、たいていは専門家に判断を委ねることになる。しかし、これは要点を外している。たとえ数々の誤りにつながるとしても、自分で作品に向き合う方がはるかに良い。芸術鑑賞の価値は、自分で作品を解きほぐすプロセスにあるのだ。また、ガイドブックに鼻を突っ込んで、専門家が吟味した意見をなぞるだけの人は、負けず嫌いがくだらないパーティーゲームに負けて絶望するのと同じ過ちを犯している。つまり、楽しい努力を生み出すように設計された活動に、達成志向の考え方を持ち込んでしまっているのである。ガイドブックに執着する人物は、芸術鑑賞が達成志向の活動であると、正しい判断をすべて得ることができれば芸術で勝てると思い込んでいる。

私の説明を芸術鑑賞の「向き合い説engagement account」と呼ぼう。これによれば、芸術鑑賞の主要な価値は、正しい判断をもつことにではなく、正しい判断を生み出すプロセスにある。向き合い説は、専門家に委ねることの何が問題かを明確にするうえで役に立つ。芸術の専門家に委ねるということは、パズルゲームをしていて、その答えをネットで調べるようなものだ。つまり、ローカルゴールをより大きな目的と勘違いし、活動の要点を見逃しているのである。

ここでいう要点とは、何から何まで自分でやらなければならないというものではない。向き合い説は、他人を頼りにすることを完全に放棄することを要求しない。たとえば、芸術教育の価値を否定するわけではない。向き合い説は、それが私たち自身の旅の終着点ではなく、出発点となり、助けとなるかぎりで、他人を頼りにし、そこから学ぶことができるとする。私たちは、他人に作品の新しい見方を提案してもらい、自分が見落としていた細部に注意を向けることができる。もちろん、それを利用して、自身による更なる積極的取り組みを育むことが条件である。まとめると、向き合い説は、作品との更なる向き合いを駆り立てるような美的信頼に好意的である一方、作品との向き合いを短絡的なものにしてしまう種の追従には好意的ではない。

しかし、そもそもなぜ正しさを目指すのか?ただ純粋な想像力の自由に気持ちよく浸っていればよいのではないか?望みのまま、信じたいものを信じ、無視したい細部を無視してはどうだろうか?ゲームとのアナロジーはこれに対する一つの答えを示唆している。ゲームにおいて、私たちは特定のゴールと制限を採用するが、そうするのは、私たちが非常に特殊な形式の活動に従事することを可能にしてくれるためである。たとえば、ロッククライミングでは、苦労して崖の頂上に到達するという人工的なゴールを設定する。また、ヘリコプターや滑車を用いない、ロープやギアを引っ張らない、岩の自然な特徴を自分の手足だけを使って進む、といった人工的な制限を受け入れる。こうした制限は、しばしば初心者に奇妙な印象を与える。「なぜロープを引っ張ってはいけないの?その方がずっと楽なのに」と尋ねる初心者は多い。答えはこうだ。もしロープを使って体を引き上げることを許してしまうと、ほとんどのクライミングが、少数の簡単な動作で延々と体を引き上げるという、似通った退屈な作業になってしまう。しかし、岩の自然な特徴を利用することだけが許されている場合、絶え間なく変化する岩の特徴に注意を払う必要が出てくる。岩の微妙な凹凸やポケットを探し出し、刻々と変化する細部に対して斬新な解決策を生み出さなければならないのだ。いわば、ロッククライミングのルールは、細心の注意と臨機応変な創造性が発揮される、どこまでも可変的で挑戦的な、絶えず更新される活動を彫琢しているのである。そして、私たちがそうした奇妙な制約を受け入れるのは、このプロセスを愛しているからだ。

私の提案は、芸術鑑賞も同じように構成された慣習だというものだ。私たちは、自分自身で考え抜くという制約を採用しながら、正しさというゴールを受け入れるが、それは、慎重で、熱心で、創造的な注意の一つの特殊なかたち、つまり、新しい作品の一つひとつに対応して、その都度新たに調整し直さなければならないような注意を自分で彫琢するためである。そして、私たちはこの独特で、愛情のこもった、細やかな注意を呼び起こし、育むために、鑑賞の対象である芸術作品それ自体を構築するのである。

そして、向き合い説は私たちが繊細で複雑な作品に価値を見出す理由を説明してくれる。明快な作品では、向き合いのプロセスは非常に短いものになってしまう。他方で、繊細で曖昧な作品は、長く、満足のいく向き合いのプロセスを維持してくれる。ここで私たちは正しさを追求しているが、それは正しさそれ自体のためではなく、試行錯誤のプロセスに夢中になるためだ。それゆえ私たちは、結論が得られそうな感覚を与えて誘惑してくるが、何らかの新しく瑞々しい可能性をつねに秘めているような活動を生み出そうとしてきた。芸術作品との生活は、最終的かつ決定的な論証で終わりにできるものではなく、オープンエンドで、いつまでも続く対話であってほしいのである。

このことは、科学や道徳と芸術鑑賞とのあいだにある深い相違を示している。結局のところ、もし医学の大きな謎を解明したり、何らかの道徳的ジレンマを解決する最終回答を思いついたりした場合、私たちは少しほっとするかもしれない。もし誰かが道徳的ジレンマをすべて解決する本を書いていたら、私は確実に自分で読みたいし、他の人にも読むように勧めるだろう。しかし、もし誰かが『カラマーゾフの兄弟』に含まれるあらゆる謎や曖昧さをきれいさっぱり説明して、決定的で説得力のある解釈を提供するマニュアルを書いたとすれば、私はひどく悲しむだろう。何か本当に素晴らしいものが世界から失われたかのように感じられるのだ。そして、私としては、それを読みたいとは思わない。