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スフレを穴だけ残して食べる方法

芸術作品を作りそこねるとはどういうことか:一つの理解

芸術作品を作りそこねることについて二人の美学者が議論している。

二つの記事で第一に問題となっているのは、「failed-art」なるクラスが実際に存在することを認めるかどうかである。

「failed-art」とはクリスティ・マグワイアが提唱した概念で、銭清弘さんの表現では、「芸術なりそこない」とでも呼べるようなものを指す。

銭さんはこのクラスの実在に懐疑的だが、難波優輝さんは鴻浩介さんの議論を参考に、このクラスの実在を認めている。

私は下記ツイートが示唆するように、「failed-art」が実際に存在してもおかしくないと考えているが、難波さんとは大きく異なる理路に基づいている。

この記事では、上記ツイートのアイデアをより具体的に展開したい(主に自分の思考の整理のために)。

 

マグワイアの議論を受けて、銭は「failed-art」を以下のように特徴づけている。

「failed-art」は「失敗作」「駄作」のニュアンスではなく、非芸術、すなわち〈芸術ではない〉ものの一種とされている。

芸術としての試みの産物でありつつ、その成功条件をクリアしていないような「芸術なりそこない」らしい。

いわば、「failed-art」とは芸術制作の試みの失敗の産物なのだが、駄作、つまり価値の低い芸術作品ではなく、そもそも芸術作品ではない何かである。

このような特徴づけを与えることのできるクラスをどう理解すべきだろうか。

私の理解では、〈試みの成否〉と〈成果の価値の高低〉の区別が重要である。

ここでは例としてトマト栽培を考えよう。

私はトマトの種を土に埋め、どうにかトマトの果実を収穫しようとしている。

その後、私は無事に果実を実らせることができたが、それはおいしいとはいえない代物だった。

このとき、私はトマト栽培の試みを成功させたが、その成果の価値は低い。

これは芸術制作の場合でいう駄作である。

一方、私は果実を実らせること自体できず、苗を枯らしてしまうかもしれない。

私の手元には枯れた苗が残るが、これはトマト栽培の試みの失敗の産物であり、成果の価値の高低を云々できるものではない。

そして、芸術制作においてこれに対応するものこそ「failed-art」だと私は考える。

一つの問題は、〈成果の価値の高低〉以前の問題として捉えるべき芸術制作の〈試みの成否〉の基準をどう理解すればよいかという点である。

私はこれを完成概念に訴えればよいと考えている。

つまり、作品が完成すれば芸術制作の試みは成功だが、完成しなければ失敗である。

作品が完成するとはどういうことかという点は今日の分析美学でも議論されているが、いかなる見解を採るにせよ、完成するか否かが芸術制作の試みの成否の基準となる。

実際、芸術実践において評価の対象となるのは完成した作品である。

たとえば、画家が筆を投げ、未完に終わったキャンバスを芸術作品として評価するのは不適切だろう。

そして、このキャンバスは「failed-art」の特徴づけに当てはまる。

この議論の教訓は、それらを何と呼ぼうと、私たちは二つのカテゴリーを区別しないといけないということだ。

  • 芸術制作の試みの成功の産物(完成した作品)であり、価値が低い。
  • 芸術制作の試みの失敗の産物(未完に終わったキャンバスなど)である。

最後に、銭が問題にしていた「failed-art」の訳語を考えてみよう。

私が理解するところの「failed-art」に近いニュアンスの日本語は「ボツ」である。

また、「失敗作」という語も、価値が低い芸術作品を指すだけでなく、ボツに対応する用法をもつのではないだろうか。

実際、ピクシブ百科事典では後者の用法が念頭に置かれているようだ。