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スフレを穴だけ残して食べる方法

アボガド6の心身問題

アボガド6の連作

アート作品とは受肉化された意味である。

アーサー・ダントー

 

アボガド6には人間の精神状態を扱った一連の作品(以下、連作)が存在する。

ここでは具体例として四つの作品を挙げよう。

視覚的修辞

アボガド6の連作は私が「視覚的修辞」と呼ぶ表現技法の事例となっている。

視覚的修辞をおおまかに説明すると以下のようになる。

視覚的修辞は画像に見られ、それは率直な描写と対照的である。

私たちは画像のうちにさまざまな対象やその性質を見ることができるが、率直な描写の場合、画像のうちに見える対象の性質はそのまま画像世界に存在する。

たとえば、ストレート写真や写実絵画では、画像のうちに赤いトマトや四角いまな板が見えるとき、トマトの赤さ、まな板の四角さはそのまま画像世界に存在するといえる。

一方、視覚的修辞の場合、画像のうちに見える対象の性質の一部は画像世界にはなく、むしろ画像世界において対象がもつ他の性質を伝える道具としての役割を担う。

非写実的な画像にはそうした現象がしばしば見られる。

私のお気に入りの例はエル・グレコだが、より親しみやすい事例は、少女マンガなどで用いられる、特定の人物の周囲を花が取り囲む表現技法だろう。

私たちは作品世界において、その人物が実際に花に取り囲まれているとは考えない。

むしろ、その人物は際立って美しいとか、高貴であるとか、あるいは花言葉に対応する何らかの性質をもっていると考えるものだ。

このとき、画像のうちに見える花々は、画像世界には存在しないが、画像世界において登場人物がもつ美しさや高貴さなどの性質を伝える道具の役割を果たしており、ゆえに視覚的修辞であると見なすことができる。

視覚的修辞に対する私たちの反応は、隠喩や皮肉などの言語的修辞に対するそれと似ている。

たとえば、「あの男は狼だ」という隠喩に対して、私たちは字義的な読みを避け、男を狼だと見なすのではなく、狼に(文化的に)結びつけられている狡猾さといった性質を男はもつのだと捉える。

視覚的修辞という概念は、言語だけでなく、画像にも「字義的な読み」を回避して理解すべき表現技法が存在することをあぶり出すべく考案されたものなのである。

さて、アボガド6の連作はあきらかに視覚的修辞の事例であるように思われる。

『心配事』の場合、私たちは画像のうちにキャラクターが万力に頭を挟まれているのを見るが、〈万力に頭を挟まれている〉は画像世界においてキャラクターがもつ性質ではなく、むしろ、キャラクターがもつ〈頭を締めつけられる感覚〉を伝える道具であると理解すべきだろう。

少なくとも私は、アボガド6の連作をこのように理解してきた。

二つの質問

私の理解について、二つの質問を投げかけることが可能だ。

二つの質問は一文で表現することができる。

  • アボガド6の連作はなぜ視覚的修辞でなければならないのか。

この文は強調点を変えることで二つの質問を構成する。

  • アボガド6の連作はなぜ視覚的修辞でなければならないのか。
  • アボガド6の連作はなぜ視覚的修辞でなければならないのか。

第一の質問は連作の視覚性に焦点を当てる。

『心配事』の要点は、心配事で頭を締めつけられる感覚を、万力に頭を挟まれることに喩える点にあるように思われる。

とはいえ、これは画像ではなく言語によっても成し遂げることができるだろう。

そして、同様のことは、特定の精神状態の感じられ方を他の何かに喩える点で共通する他の作品にも指摘できる(『立ちくらみ』のようにあきらかに言語では成し遂げがたい効果をもつ作品も存在するのだが)。

では、アボガド6の連作(の一部)は何らかの言語的修辞に置換可能なのか。

言い換えれば、なぜ視覚的でなければならないのか。

この質問は、画像一般がもち、言語一般がもたない性質に訴えることで応答できるかもしれない。

『心配事』は言語では(容易には)得られない仕方で豊かな情報量をもつ、あるいは、ただ言語とは情報伝達の仕方が異なるために、画像ならではの意義をもつ、と。

これはつまらない、おそらく強引でもある応答だが、一つの応答ではあるだろう。

第二の質問は連作の修辞性に焦点を当てる。

そもそも、私たちはなぜ連作を修辞として理解しなければならないのか。

『心配事』の場合、画像世界においてキャラクターは実際に万力に頭を挟まれていると捉えて何が悪いのか。

言い換えれば、なぜ修辞でなければならないのか。

応答は簡単である。

結局のところ、タイトルが『心配事』である以上、私たちは作品に描かれているものを心配事に結びつけなければならず、実際に万力に頭を挟まれていると捉えた場合、この結びつきは失われてしまう。

私たちはなおもキャラクターに頭を締めつけられる感覚を帰属できるかもしれないが、それは万力に頭を挟まれている感覚であり、心配事を抱えた際の感覚ではもはやない。

質問者はこの応答に対して、連作はキャラクターの姿が心のありように対応してそこに描かれたとおりに変化する摩訶不思議な世界を率直に描いたものだと解釈できると言うかもしれないが、そう解釈すべき積極的な理由はないように思われる。

このように、二つの質問に一応の応答を行うことはできる(質問者がそれで満足するか若干怪しいところもあるが)。

とはいえ、私にとって上記の応答は決定的に不十分であり、アボガド6の連作の重要な点を見逃しているようにみえる。

アボガド6の連作が興味深いのは、それが担う意味のために、自らが視覚的修辞であることを要請する点にあるのではないか。

以下では、連作(ひいてはアボガド6作品一般)における身体と精神の関係を考察することで、この点を明らかにしたい。

身体と精神、そして画像

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは身体と精神の関係について以下の箴言を残している。

人間の身体は魂の最良の画像(picture/Bild)である。

この一文は、スタンリー・カヴェルによれば、「ヴェールとしての身体という神話」に取って代わろうとするものである。

テキスト解釈の難しい問題に踏み込む代わりに、ここから有益な図式を取り出そう。

問題となっているのは二つの対立する身体観である。

  • ヴェールとしての身体
    精神を隠すものとして身体を捉える。
  • 画像としての身体
    精神を示すものとして身体を捉える。

常識的理解に照らせば、二つの身体観は真偽を争って決着がつくようなものではなく、強調点が異なるだけである。

結局のところ、身体は精神を示すこともあれば、隠すこともあるものだ。

会話相手の表情が見えないとコミュニケーションがぎこちなくなるのは、相手の精神を把握するための重要な手段が失われているからに違いない。

一方、詐欺師の作り笑いのように、身体は精神を覆い隠したり、偽装したりするための道具にもなりうる。

ウィトゲンシュタインはおそらく他我問題に対処すべく、身体がもつ精神を示す側面を強調したが、興味深いのは、彼がその際に身体を画像に喩えた点である。

アボガド6の連作はまさにその画像だが、ウィトゲンシュタインとは対照的に、身体がもつ精神を隠す側面を強調するものだと私は解釈する。

そして、より重要なことに、連作は身体が精神を示すその力の限界を、さらに、画像が身体以上に精神をうまく示すことができることを、画像によって示す試みである、と。

身体と画像のパラゴー

私の解釈を展開し、その説得力を示すため、二三の事柄を指摘したい。

第一に、アボガド6にはヴェールとしての身体を主題化した作品が複数存在する。

三つの例を示そう。

これらの作品はいずれも、身体が精神を覆い隠したり、偽装したりしうるさまを描いたものだ(私はこの点を否定する適切な解釈が思いつかない)。

アボガド6はヴェールとしての身体に継続的な関心を示しており、このことは連作にも同様の関心が現れていると考えるように促す。

第二に、アボガド6は連作において、精神状態を表現するための二つの手法を利用することである種のギャップを生み出している。

二つの手法とは、身体の率直な描写と精神の視覚的修辞である。

まず、ウィトゲンシュタインの指摘するとおり、身体は精神を示すことができるため、身体を率直に描くことで精神状態を表現することができる。

これは写実絵画の基本戦略であり、カラヴァッジョの『トカゲに噛まれた少年』はその好例だ。

次に、すでに説明したように、視覚的修辞を用いて精神状態を表現することもできる。

連作では、視覚的修辞は主題となる精神状態がどのように感じられるかという点を示すために用いられている。

つまり、連作は心配事、キャパオーバー、立ちくらみ、「瞼の裏のプラネタリウム」がどのように感じられるかを視覚的修辞によって示している。

そして、アボガド6は二つの手法を利用して、〈身体に示されたものとしての精神〉と〈感じられたものとしての精神〉のギャップを鮮明に伝えているのだ。

連作において、身体が精神をまったく示さないということはあまりない(『心配事』におけるシャツを掴むしぐさはもちろん、たいていの作品における表情の繊細な描写にも精神の幾ばくかを読み取ることはできるだろう)。

しかし、身体が精神を示していたとしても、画像が視覚的修辞という固有の表現技法によって示す〈感じられたものとしての精神〉はよりはるかに強烈なのである。

実際のところ、キャラクターの表情等の身体動作を誇張して描く第三の手法も選択肢にあったはずだが、アボガド6は採用していない。

そうしてしまえば、鑑賞者は問題のギャップを認識できなくなるからだろう。

また、連作ではこの種のギャップが顕著な精神状態が主題に選ばれることが多い。

得点の喜びはゴールパフォーマンスとして身体によってはっきり示されるが、心配事、キャパオーバー、立ちくらみ、「瞼の裏のプラネタリウム」ではそうもいかないのだ。

こうした点から、連作は身体が精神を示すその力の限界を、さらに、画像が身体以上に精神をうまく示すことができることを、画像によって示す試みだといえる。

 

ダメ押しとして、視覚的修辞の構造に改めて注目してもよい。

視覚的修辞では、花に取り囲まれていることからそのキャラクターが美しさや高貴さをもつことがわかるように、画像のうちに見える性質を道具として、画像世界に存在する性質に鑑賞者はアクセスすることになる。

そして、道具となる性質は画像のうちに見えるだけで、画像世界には存在しないという点を思い出そう。

これは画像世界の住人が、(鑑賞者が視覚的修辞を通して認識できる)キャラクターの精神を認識できないことを示唆する(メタフィクション的表現などの例外は認められるべきだが)。

連作の場合、住人が認識できるのはキャラクターの身体を通して示される希薄な精神でしかなく、ここでもやはり問題のギャップを確認できるのだ。

二つの質問、再び

いま、私たちは二つの質問によりうまく応答できる立ち位置にある。

まず、連作はなぜ修辞でなければならないのか。

むしろ、キャラクターの姿が心のありように対応してそこに描かれたとおりに変化する摩訶不思議な世界を率直に描いたものだと解釈できないか。

身体が精神をつねに完璧に示すこの世界がユートピアか、それともディストピアか知る由もないが、ともあれ、私たちが画像のうちに見るものはそのまま画像世界に存在することになり、作品をより明快に理解できるようになるのだから。

しかし、この解釈の問題点はもはや明らかである。

連作において重要なのは、身体に示されたものとしての精神と感じられたものとしての精神のギャップだが、この解釈ではギャップは生じない。

連作に込められた意味を捉えるには、それを修辞と見なす必要があるのだ。

次に、連作はなぜ視覚的でなければならないのか。

少なくとも一部の作品は言語的修辞に置き換えることができるのではないか。

これに対して、私たちはそんなことはできないとはっきり言うことができる。

とりわけ心配になる事例は『心配事』だが、心配事で頭を締めつけられる感覚を万力に頭を挟まれることに喩えたところで、二つの経験の類似性が指摘されるだけで、問題のギャップは明示されないのだ。

質問者はここで、一文で簡単に置き換えることはできないとしても、問題のギャップを扱うことは言語にもできるのだから、置換可能性がなくなるわけではないと応酬を重ねようとするかもしれない。

それならば、私は前述の画像一般の性質に訴える薄ぼんやりした応答を肉づけしよう。

連作は身体に示されたものとしての精神と感じられたものとしての精神を空間的に併置することで、それらのギャップを効果的に伝えることに成功している。

そして、空間的併置は言語には叶わないのである。

むすび:心の秘密

アボガド6はもっとも成功している「Twitter絵師」の一人である。

R・G・コリングウッドが残した下記の言葉が現代日本にも通用するならば、本稿の議論はその成功の理由(の一端)を示唆するものだと私は信じている。

芸術家は、来るべき事柄を予告するという意味でではなく、自らの観客に、彼らを不快にするという危険を冒して、観客自身の心の秘密を告知するという意味で、予言をしなければなりません。芸術家としての彼の任務ははっきりと語ること、すなわち告白することなのです。