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スフレを穴だけ残して食べる方法

言語と他者理解に関するコリングウッドの知られざる一節

Collingwood, R. G. 1938. The Principles of Art. Oxford University Press.

 

R・G・コリングウッド『芸術の原理』には言語と他者理解に関する深い洞察がある。

ここで印象的な一節を抜き出して紹介しよう。

(以前には情動表出に関する有名な一節を抜き出して紹介したことがある。)

コリングウッドによれば、「人はまず言語を獲得してから、それを使うのではない」。

むしろ、「使おうと繰り返し、漸進的に試みることで、われわれははじめて言語をもつことができるようになる」という。

ここに印象的な一節が続く。

読者は、ここで主張されていることが真実だとすると、聞き手にとっても、話し手にとっても、一方が他方を理解することに関して絶対的な保証は存在しえないことになるではないかと反論するかもしれない。これは正しい。しかし、実際のところ、そのような保証は存在しない。われわれがもつ唯一の保証は経験的かつ相対的な保証であり、これは会話が進むにつれ次第に強まり、またどちらの当事者も相手にとって意味のないこと(nonsense)を言っているようにはみえないという事実に基づいている。二人がお互いを理解しているかどうかという問いは、会話のなかで解決される(solvitur interloquendo)。会話を続けるのに十分なほどお互いを理解しているならば、二人は必要なだけお互いを理解している。そして、得られなかったことを後悔していいような、よりすぐれた種の理解は存在しない。(pp. 250-251)

一読して、ひどく腑に落ちる議論だと思った。

コリングウッドはこの議論を芸術鑑賞にも適用している。

なるほど、芸術作品を完全に理解したことを保証してくれるものなど見当たらないし、芸術作品を完全に理解するとはどういうことなのかも疑問だ。

ここで私は(文脈はやや異なるが)アレクサンダー・ネハマスの言葉を思い出す。

物事が「完全に理解される」のは、それについてもっと知りたいとは思わなくなったときだけです。理解が尽きるのは、対象が尽きるときではなく、が尽きるときなのです。

少なくとも自分自身が尽きるまで、われわれは幾度と作品に立ち返り、外的証拠を取り入れながら、少しずつ理解を高めていくという終わりなき道程を歩むに違いない。

 

さて、原文を掲載しておこう。

The reader may object that if what is here maintained were true there could never be any absolute assurance, either for the hearer or the speaker, that the one had understood the other. That is so; but in fact there is no such assurance. The only assurance we possess is an empirical and relative assurance, becoming progressively stronger as conversation proceeds, and based on the fact that neither party seems to the other to be talking nonsense. The question whether they understand each other solvitur interloquendo. If they understand each other well enough to go on talking, they understand each other as well as they need; and there is no better kind of understanding which they can regret not having attained. (pp. 250-251)

斜体となっている「solvitur interloquendo」はラテン語だが、ラテン語は習っていないため、ウェブ検索したところ、この一節を引用し、訳語も載せている文献を見つけた。

solvitur interloquendo [is settled in the talking]」とあるので、邦訳に反映している。

なお、検索の最中にちょっとおもしろいページも見つけた。

「THE GRICE CLUB」なるブログがあり、そこにこの一節が取り上げられていたのだ。

筆者は以下のようにコメントしている。

ジーニアス!彼が二十世紀イギリス哲学史の研究者から完全に無視されていることを思うと残念でならない。そして、彼は真のオクソニアン(Oxonian)でもあった。

 

最後に、翻訳書の該当部分も載せておこう(逐一指摘しないが、いろいろと問題含みの訳だと思う)。

読者は、ここで主張されていることが真実だとしますと、聞き手にとっても、話し手にとっても、一方の人が他方の人を理解したということの絶対的保証というものは決して存在し得ないと、論駁するかもしれません。実際にそのような保障がないとすれば、この論駁はその通りなのです。私たちが所有する唯一の保証なるものは、話が進行するにつれて次第に強くなるといった、どちら側も他方に無意味なことを語っているようには見えないという事実に基づいているという経験的、相対的な保証ということになります。彼らが相互に理解し合うかどうかという問題は〈問答によって解決せられる solvitur interloquendo〉のです。彼らが話しを続けることができるように、相互によく理解し合うということになりますと、彼らは、彼らが相互に必要とし合っているのと同じように、理解し合っているのです。そして彼らが成しとげなかったことが残念だと思える一層好ましい種類の理解といったものは、存在しないのです。(p. 275)