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スフレを穴だけ残して食べる方法

ニック・リグル、アンリ・マティスについて

分析美学が批評の執筆に役立つかはさておき、分析美学者は少なからず多からず批評に取り組む。

美的価値やストリート・アートの研究で知られるニック・リグルはその一人だ。

今回はリグルがアンリ・マティスについて書いた一節を訳出した。

国立新美術館にて来月開催予定だった「マティス 自由なフォルム」展は残念なことに来年以降に延期されたが、リグルが扱うのはこの展覧会と同じく、マティスが晩年制作した切り紙絵である。

マティスの切り紙絵に込められた意味を探求するなかで、リグルの議論は変容的経験、また自己と身体、環境、芸術との関係に関しても示唆に富んだ内容となっている。

なお、リグルのマティス論は独立した作品ではなく、現代の画家エヴァ・ストラブルの作品を論じた文章のほんの一節にすぎない。

リグルはマティスと対照するかたちで、ストラブルの作品の特徴を浮かび上がらせようとしているのだ。

文章の全体は上記リンクにあるので、文脈を補いたい方はもちろん、気になる方はぜひ参照してほしい(ストラブルの作品を眺めるだけでも楽しい)。

訳文について。

脚注は省き、強調を示す斜体は太字に、引用を示す斜体は引用ブロックに置き換えた。

原文に付されたリンクは訳文でも付しており、そこから本文で言及された作品の画像を見ることができる。

ニック・リグル、エヴァ・ストラブルについて(抄訳)

環境が変われば自分も変わり、自分が変われば環境も変わる。

アンリ・マティス(1869-1954)は晩年、72歳のとき、ほぼ確実に死に至る腹部癌であると診断された。根治手術を受けたことで、彼の寿命は14年延びたが、運動能力は著しく低下し、もはや絵を描くことはできなくなった。人によっては、長い人生の後に突然、自分の体になじむことができず、使命を追求することも叶わないような感覚に陥るよりは、死んだ方がましと思うだろう。マティスの場合、それは変容的な出来事であった。「恐ろしい手術は、私を完全に若返らせ、哲学者にしてくれた。私は完全に人生からの退場を覚悟していたため、自分が第二の人生を歩んでいるように思える」。新しい自己と新しい体を携えたその第二の人生において、彼はコラージュに着手した。アシスタントに手伝ってもらいながら、紙に絵具を塗り、それを切り取って並べることで、小さいものからほとんど記念碑的なものまで、抽象的なものから象徴的なもの、イメージをかきたてるものまで、多様な作品を制作した。マティスはこれらの作品を「グワッシュ・デクペ」(グワッシュは絵具の一種)と呼び、自分のキャリアの頂点と見なした。「言いたいことが言える段階に至るまで、これだけの時間が必要だった……病後に制作したものだけが、私の本当の自己、自由で、解放された自己を構成する」。

彼は何から解放されたのか?マティスの解放感には間違いなく、彼が50年間没頭してきた技術や伝統——彼の様式を定義し、彼がその創造に貢献し、そして20世紀の絵画の流れを決定づけたもの——からの解放が含まれていた。紙、絵具、ハサミを使うことで、マティスは新しい自己を構築し、描き、刻んだのである。

しかし、彼が解放されたという考えにはどこか不可解なところがある。この時期の最高傑作は、新しい技法を何年もかけて完成させた後、人生の最後に近い時期に制作されたものだ。1946年から47年にかけて、マティス『オセアニア 空』『オセアニア 海』という二つの作品を制作した。これら大きな長方形の作品は、均一なベージュの背景に白でさまざまな抽象的な図形の切り紙が等間隔に配置されており、サンゴや海藻、鳥、魚を連想させる。

これらはどこかの場所のイメージなのか?タイトルはこれを示唆しており、マティスは制作の際、タヒチ旅行の思い出からインスピレーションを受けていた。彼は次のように書いている。

リネンにプリントされたこのパネル[『オセアニア 海』]は、モチーフは白、背景はベージュで、二枚目のパネル[『オセアニア 空』]とともに一式の壁掛けを構成し、オセアニアへの船旅から15年後の回想に浸りながら制作したものである。

旅の最初から、現地の空とラグーン、水中の魚やサンゴの魅惑は、私を無為(inaction)の完全なる恍惚に放り込んだ。事物に固有の色調は変わりないが、太平洋の日差しに照らされたその効果は、かつて私が大きな黄金の聖杯を覗き込んだときと同じ感覚をもたらした。

私は目を大きく開いて、スポンジが液体を吸収するようにすべてを吸収した。そして、今になってようやく、これらの驚異は優しさと明確さをもって私のもとに返ってくれ、持続的な快をもって私に二枚のパネルを完成させてくれた。

マティスは自分が失った人生を追体験しようとしているのだろうか?もはやなることのできない自己を記憶と芸術のなかで具現化することのいったい何が解放的なのかと疑問に思う人もいるかもしれない。そうした視点からすると、二枚のパネルは永遠に失われた場所と自己の哀悼的なイメージである。では、彼はどのようにして新しい自己を発見したのか?そして、どのようにして解放されたのか?

実際には、これらのイメージは特定の場所のものではない。むしろ、マティスの解放的な芸術様式の染みこんだ、抽象化された場所である。これらの作品を通して、マティスは「無為」の記憶、つまり、現在の自分の体の状態を想起させながら、その無為が「完全なる恍惚」と「持続的な快」の源であった記憶を蘇らせた。この時期の他の作品も同様に、彼がもはや住むことのできない空間を再現する試みとなっており、そこでは不動性が、のどかさ、穏やかさ、静けさとともに支配している。『スイミング・プール』(1952年)は、波と水しぶきの大きな青い切り紙絵で、ニースにある彼のアパートのダイニングルーム全体を覆っていた。『インコと人魚』(1952年)は、彼が制作したもっとも大きな切り紙絵の一つで、彼にいつでも訪れることのできる庭を与えた。マティスは自分の新しい芸術を利用して、新しい自己のための空間を作り出し、新しい自己を定義しているのだ。いまでは、マティスは庭やプール、オセアニアに行くことで、彼を見つめかえす彼自身、新しい自己を見る。

マティスの死が近づくにつれ、彼のイメージはますます抽象的になっていった。たとえば、1953年に制作された、9×9インチの素晴らしい抽象的な切り紙絵『オセアニアの記憶』を見るといい。マティスが抽象化を進めていくことにはどのような意味があるのだろうか?その場所が具体的でなければないほど、彼は容易にスタジオやダイニングルームであたりを漂っていられ、その場所が永遠に失われたという事実が思い出されることもなくなる。マティスは、非常に個別的な場所の非常に個別的な記憶を追体験することと、芸術を通してその場所の個別性を剥ぎとり、そうして再びそこに行けるようにすることの両方を望んでいるようだ。その場所が抽象的であればあるほど、彼はそれを所有可能になる。

私たちが作り出す場所のイメージ、周囲の環境を理解する方法は、私たちの自己のイメージと共鳴している。もし、私たちの場所のイメージがその場所から遊離した紋切り型のものだとしたら、それは私たちについて何を語るのだろうか?

マティスとは反対のこと、すなわち、自分を土地から切り離すのではなく、ローカルなもの、個人的なもの、具体的なものを通して、自分を土地に浸すことで自分を解き放つことにはどのような意味があるのだろうか?

マティスは旅行できなかったため、個人的な意味を求めて、場所を抽象化した。一方、エヴァ・ストラブルは公的な意味を求めて、場所の個別性を作り出す。脱ローカライズされた場所をローカライズするには、解体し、引き算し、剥がすことで構築しなければならない。