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スフレを穴だけ残して食べる方法

ティ・グエン「食文化のロールズ主義理論」

美学と社会認識論の研究で知られるティ・グエンは、ロサンゼルス・タイムズでフードライターをやっていた経歴をもつ。

そんなグエンが食文化について書いたエッセイがおもしろかったので、日本語に訳してみた。

このエッセイでは、グエンはジョン・ロールズの言葉を出発点に、食文化の質、そして食に対する愛を見極めるための方法を提案している。

以下、註を含めて上掲記事の日本語訳である。

なお、原文ではグエンが食べた軽食の(映えの意識をまるで感じさせない)写真を見ることができるが、そのキャプションは訳していない。

ティ・グエン「食文化のロールズ主義理論」

社会を判断するには、もっとも貧しい人々の状態に目を向けるべきだとジョン・ロールズが言ったことはよく知られている*1。上層部の人々がどれだけ裕福か、教育水準が高いかは重要ではない。最良の社会とは、最下層の人々が最良の待遇を受ける社会なのだ。

私は一つの帰結として「食文化のロールズ主義理論」を提案したい。食文化のロールズ主義理論によれば、食文化の質を判断したいとき、最高級のレストランや最高の料理を見てはいけない。低価格帯に目を向けよう。屋台やサービスエリアの軽食に、深夜2時の空港で手に入るものに目を向けよう。どんな地域でも、十分な資金を投じれば素敵な料理店を何軒か出すことはできる。食に対する本当の愛とこだわりを示すのはむしろ、手を抜いて済ませられるときでさえ、人々が美味しい料理を作っているときである。

私は人生の半分をロサンゼルスで過ごした。ロサンゼルスには素晴らしい食文化の小地区もあれば、世界有数のレストランもある。私はロサンゼルスのフードシーンを心の底から愛している。しかし、ロサンゼルスの大部分はロールズのフードテストに完全に落第している。私はここで主にサンタモニカやビバリーヒルズ、ハリウッドといった裕福な地域の話をしている。人々はそれで済ませられるときはいつでも、陳腐で、いい加減で、でたらめな料理を出していた。どこもかしこも手抜き料理ばかりだった。食に対する愛は骨の髄まで行き届いてはいなかったのだ*2

イスタンブールに行ったとき、あまりにも素晴らしい料理にあふれていたので、一つゲームをやってみた。ひどい料理を見つけることは本当にできるのか?結果を言えば、かろうじてできた。私が試したほとんどの料理は少なくともけっこう美味しかった。サービスエリアのペストリーは?最高だ。空港のコーヒーショップのバクラヴァは?アメリカで食べたものよりも良かった。派手な観光エリアにある屋台のケバブは?確かに、人々が怠けられる場所があるとすれば、そこではないだろうか?いや、そのケバブでさえ最低限のプライドをもって作られていて、なかなかの出来だった。アンソニー・ボーディンは、ニューヨークを転々としながらいい加減な手抜き料理で腹を満たす生活を送ったのち、初めて訪れたサイゴンで魂が引き裂かれそうになったと書いている。彼が食べた料理はどれも素晴らしく、料理を売る人は誰もがこだわりと気配り、繊細さをもって作っていた。

食文化のロールズ主義理論が私の「食の空港原理」とは異なることに注意したい。空港原理によれば、料理Xを真に得意とする地域の空港版Xは、その他多くの地域で手に入る最上級Xよりも十中八九美味しい。LA空港のフィッシュタコスは南カリフォルニアのローカルチェーンのほんの一部だが、ニューイングランドの最高のフィッシュタコスよりも美味しい。デトロイト空港のチリドッグは西海岸全域で食べたどのチリドッグよりも美味しい。シカゴ空港のシカゴ風深皿ピザはシカゴのベストには程遠いが、カリフォルニアで一番の試みをはるかに上回る出来で、私の心を躍らせる。

空港原理と食文化のロールズ主義理論は異なる事柄を問題にしている。空港原理は特定の料理を扱う専門技術がいかに深く複雑なものであるか、地域差にどれほどの開きがあるかを問題にしている。ある地域がある種の料理に対して高度に特化しているとき、それは他の地域よりも少しばかり優れているのではない。何光年も優れている。一方、食文化のロールズ主義理論が問題にしているのは愛であり、一部地域では食に対する愛が非常に深いため、人々は必要がなくとも素晴らしい料理を作るという事実である。ほとんど誰も見ていなくても、こだわって作るのだ。

*1:これは単純化したものである。捨ておけ、ロールズ研究者。

*2:一方、ロサンゼルスに点在する民族居住地の一部はロールズのフードテストに見事に合格している。これは「食文化」というものが特定の地理区分に住む全員に等しく適用されるわけではないことの証だ。