つい先日、TwitterではNHK出版の「100分de名著」シリーズ、岸政彦『ブルデュー『ディスタンクシオン』 2020年12月』(以下、著者の名前を取って「岸本」と呼ぶ)が話題になっていた。
僕は『ディスタンクシオン』自体も、その解説書も未読で、文化資本という概念や木の皮の写真の話が出てくることといった、どこかで聞きかじったアトランダムな知識しかもっていなかったが、興味がなかったわけではない。
一応美学をやっているし、この本は趣味を扱っているわけで、いずれはちゃんと知っておくべきだという認識があったので、これを機に岸本で入門してみることにした。
そして、岸本を読んで知ったのだが、『ディスタンクシオン』は「千ページほどある」(はじめに)うえ、文体が非常に難解らしい。
そんな本の議論を100分で読めるかたちで紹介してくれるのだからありがたい。
内容を見ていくと、うなずける論点も興味深い論点もいくつもあり、思考を触発されたのだが、なかにはほとんど納得できない論点もいくつかあった。
そこで、この記事では細かいものはわきに置き、二つの論点を取り上げ、それに抗ってみようと思う。
なお、手元にあるのは電子書籍版であり、引用する際はページ数を示すことができないため、該当する章のみ示した。
また、この記事では岸本において提示される議論のみ扱い、『ディスタンクシオン』を含むブルデュー本人の著作に言及することはない。
言い換えると、問題は岸本に書かれているものなので、ブルデューが実際にそのような議論を展開したかといったことは僕の関心ではない。
そのため、岸本で紹介される議論の帰属先を〈ブルデュー*〉と表記する。
「稲妻の一撃」の否定
『ディスタンクシオン』の議論を紹介するうえで、著者が最初に言及するのは「稲妻の一撃」の否定である。
「稲妻の一撃」とは何だろうか。
「たまたま出会った」(ch. 1)や「偶然の神話」(ch. 1)とも言い換えられるのだが、著者はその例として、中学時代にラジオからウィントン・ケリーのピアノ演奏が流れ、「ウィントン・ケリーめっちゃいい!」(ch. 1)と感じた個人的経験を挙げている。
そして、その経験について「私は衝撃を受け、ものすごく感動し、これは霊的な出会いだ、まさに「稲妻の一撃」だと思っていました」(ch. 1)と告白する。
言われてみると、僕にもそのような出会いがある。いくつか例を挙げてみよう。
- 桃屋の搾菜
どれも思い出深い品々だ。
さて、ブルデュー*は稲妻の一撃を否定するというのだが、ここで問題にしたいのは、それが成功しているのかである。
簡潔に言えば、そこで繰り広げられる議論は、趣味は自然の賜物ではなく教育の産物だというものである。
そこで、著者はケリー事例を思い返して、当時我が家にジャズのレコードが少数ながらあったこと、「百科事典や文学全集もあって」(ch. 1)芸術の存在を身近に感じていたこと、そうした環境のおかげで「音楽作品と出会うための下地があった」(ch. 1)のだと認める。
一般化して、「そもそも音楽を鑑賞するという習慣、態度、構え、性向といったものがまったくないと、ラジオから流れてくるものはただの音にしか感じられないでしょう」(ch. 1)と言う。
なるほどこれは説得的だ。
具象絵画しか知らなかったならば、僕はロスコの絵画に何が描かれているかを探そうと躍起になっては途方に暮れて、何も楽しめなかったかもしれない。
とはいえ、はたしてこうしたことが稲妻の一撃を否定したことになるのか。
たしかに、作品と出会い、それに惹かれることには家庭や学校などによる教育の下地が不可欠かもしれない。
それでも、作品との出会いは一期一会の、かけがえのないものではないだろうか。
たとえば、あなたに『Detroit: Become Human』を楽しむ下地ができていたとしても、この作品に実際に出会えるとはかぎらない。
それをプレイすることで得られたはずの素晴らしい経験を味わうことなく、生を終える可能性は十分にあるのだ。
さらに、どんなに議論を積み重ねようと、決して稲妻の一撃という経験を否定できようはずがないことも強調したい。
頭痛を理由に行事を欠席するとき、誰かが仮病ではないかと疑うかもしれないが、どれだけ疑われようと、あなたの頭痛の痛みは揺るがぬ現象的事実だ(痛みの存在を相手に証明できなかったとしても)。
同様に、稲妻の一撃の経験、著者が言うように「魂を震わすような、ドラマティックな瞬間」(ch. 1)は、それがたしかに感じられているかぎりで、やはり揺るがぬ事実なのだ。
必ずしも楽しむ下地ができている作品と出会えるとはかぎらないこと、経験そのものは否定しえないこと、これらは稲妻の一撃という現象の存在を支持している。
結局のところ、教育の下地が趣味を支えているとしても、稲妻の一撃が否定されるわけではない、ということだ。
(余談として、『江南スタイル』に合わせて踊るオウムはただの音以上のものを聴いているように思われるが、ブルデュー(*)の枠組みではどう説明されるか気になる。)
象徴闘争
岸本の二章のテーマは、節タイトルにもなっている「象徴闘争のアリーナとしての界」(ch. 2)である。
二つの専門用語のうち、「界」は「非常に簡単に言えば、たくさんのさまざまな人々が集まって、この音楽は好きとか嫌いとか、この映画は良いとか悪いとかと主張しあっている、たくさんの広場というか市場のようなもの」(ch. 2)とされる。
「芸術、学問、スポーツ、政治、文学」(ch. 2)が例に上がっているが、一文字足して「業界」として、あるいはTwitterでいう「クラスタ」として捉えてよさそうだ。
人々は教育を通して一定のふるまいのパターン(ハビトゥス)を身につけるが、これが人々を(このジャンルを好む種の人々、あのジャンルを好む種の人々、というように)分類するはたらきをもち、そうして界は形成されると考えられている。
一方の「象徴闘争」は「闘争」の一種だが、闘争とは人間の行為につねにともなうもので、「利益」を求めることとされる。
「利益」は「自らを犠牲にして他人に尽くすこと」(ch. 2)をも含む非常に広い意味をもつが、これは単なる目的のこととして理解してよいのか、他の何かを意味するのかは明言されていないのでよくわからない。
(単なる目的だとしたら、ブルデュー*は目的にしたがって行為することを「闘争」と呼んでいることになり、あまりにも大げさだと言わざるをえないが、著者も「ちょっと強すぎますよね」(ch. 2)とコメントしている。)
闘争一般はともかく、象徴闘争は「自分が持っているハビトゥスや知覚様式、あるいは自分の「ポジション」の価値を押し上げるために、趣味を通じて」(ch. 2)行われる「価値観の押し付け合戦」(ch. 2)のことを指している。
また象徴闘争は「掛け金」をめぐって行われるが、掛け金とは「象徴的な利得であり、平たく言うと、他者からの評価や承認、あるいは権威のようなもの」(ch. 2)だ。
そしてブルデュー*によれば、「人がなぜ好き嫌いの判断をするのかと言えば、自分のハビトゥスの優位性の押し付けをやっているからである」(ch. 2)。
このことは「差異化」や「卓越化」とも呼ばれる。
これは言うまでもなく驚くべき主張であり、著者も「おそらくもっとも批判されるのがこの点」(ch. 2)だろうと言うが、この主張を擁護するための議論を展開している。
まず、たとえばジャズが最高の音楽だと認められたと仮定すると、「ジャズの演奏家やファンたちは、あきらかに世俗的な利益を得ることができるでしょう」(ch. 2)ということが指摘される(ファンたちの利益は金銭的なものではないだろうから、「世俗的な利益」は先ほどの掛け金、たとえば承認欲求を満たすことを含むものとして解釈すべきだろう)。
しかし、結果的に世俗的な利益が降り注ぐことから、ジャズ愛好家たちがそれを目的に行為していたと見なすには飛躍があるのではないか。
あなたがお気に入りの劇場を訪れ、その百万人目の来場客となることで利益が得られたとしても、そのことからあなたが(何度も)その劇場を訪れたのは百万人目の来場客となることを狙っていたのだ、とは言えないように。
著者のもう一つの指摘、「何かの音楽を良いと判断することは、それを聴いたり演奏したりする人々を、他よりも上位に置くことになる」(ch. 2)ということも同様の応答ができそうだ。
おそらく、慈善的な解釈は、人々が趣味判断をする際、必ずしも象徴的な利得を目的にしているわけではないが、とはいえ、趣味判断にはそうした利害関係がつねに付随してくる、というものではないだろうか。
言い換えれば、ある作品を良いと判断するとき、われわれは価値観を押しつけるためにそうしているというよりは、そうすることが同時に価値観の押しつけにもなってしまうのだ、と。
このように理解してみると、趣味判断をしたからといってわれわれは密かな策略家ではなくなるため、ブルデュー*の議論に対するショックが(もし生じていたら)ある程度やわらぐかもしれない。
そして、実際にあなたが何らかの作品を好むことで何か象徴的な利得を得たとしても、それはあなたが気にも留めない副産物でしかないと考える余地が出てくるのだ。
とはいえ、そうだとして、美的実践におけるわれわれのふるまいは本当に差異化一つで説明できるのだろうか。
差異化を逆転させ、同一化の観点から趣味を説明できないか考えてみよう。
われわれが自分の趣味を表明するのは、他者と意見を共有することに価値を見いだし、それを目指しているからだ、と。
実際、この種の考えは美学において一つの大きな流れを形成している。
たとえば、上掲の対話集でロジャー・スクルートンは、われわれは「合意を求める求愛者」だというイマヌエル・カントの言葉に触れたのち、次のように述べている。
われわれは必ずしも自分の趣味を他人に押しつけようとするわけではないが、自分の趣味は正当だと考えて、通常の状況では判断の一致を目指している。これには多くの深い理由があるが、その一つは、美的判断が〈この世界に住みかを作り、それを他者と共有しようとするわれわれの試み〉にとって基本的なものだからだ、というものである。(p. 185)
ここで、ヤゲオ財団コレクション展(以下、ヤゲオ展)のマーク・ロスコの抽象絵画について個人的経験を少し書いてみたい。
僕が現代アートに本格的に関心をもつようになったのは大学時代であり、それまで抽象絵画にはほとんど縁がなかったのだが、大学時代のヤゲオ展でのロスコ経験はきわめて強烈なものだった。
それまで、抽象絵画の作品には何か良さを見いだすことはあっても、真に心動かされることはなかったと言ってよいが、そこでついに「魂を震わすような、ドラマティックな瞬間」(ch. 1)に立ち会えたのだ。
いまその経験を詳細に語ることは難しいのだが、それはともかく、ウェブ上で見つけた一つのブログ記事が僕の心をもう一度動かした。
ヤゲオ展に行った感想を記したものだが、その記事はいまも残っている。
僕はこの記事のライターのロスコに対する評価に激しく共感したし、その共感は大きな喜びをともなうものだった。
こうした経験は誰もがしているはずで、カラオケで友人が自分の好きな歌を選んだときや、上司が自分の好きなキャラクターのプリントの入ったマグカップを持っているのを見たときなど、そうした状況は胸を躍らせる。
われわれはたしかに意見の一致を求めているのだ。
他方で、美的実践には「闘争」という言葉に非常に相性のよい現象として、美的論争がある。
しかし、美的論争でさえ、論争を通して意見の一致を目指しているのだと考えることができる。
実際、友人と美的論争を交わすとき、友人に説得され、自分の意見を取り下げることになっても、不快感はおろか、「ああ、たしかに!」と満足感を得ることもある。
このように見ていくと、同一化に訴える説明はなかなかいい筋をしていることがわかる(差異化は基本無意識に行われるとするブルデュー*の理論に対して、あくまで意識的経験のみに訴える点でも魅力的だと思う)。
とはいえ、ブルデュー*の差異化説は誤っているが、同一化説が正しいと言いたいわけではない(慈善的に解釈されたブルデュー*の理論と相容れる可能性もある)。
岸本で挙げられる事例が示すように、われわれはしばしば明白な仕方で差異化を、象徴闘争を試みていることもたしかなのだ。
われわれはときに同一化を求め、ときに差異化を求める、そんな平凡な事実を確認して満足することにしたい。