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スフレを穴だけ残して食べる方法

後期近代視覚芸術における語りの役割:文脈化と再文脈化(デイヴィッド・デイヴィス)

Davies, D. 2007. Telling Pictures: The Place of Narrative in Late Modern ‘Visual Art’. in Philosophy and Conceptual Art, eds. P. Goldie & E. Schellekens, 138-156. Oxford University Press.

今回は以前取り上げた論文集『Philosophy and Conceptual Art』から、デイヴィッド・デイヴィスの論文を紹介したい。

Philosophy And Conceptual Art

Philosophy And Conceptual Art

  • 発売日: 2009/08/17
  • メディア: ペーパーバック
 

読書会で読んでなかなかおもしろかったし、現代アートを哲学するうえで重要な複数の論点(言説の役割、鑑賞観、存在論ドキュメンテーションなど)が含まれているからだ。

デイヴィスの主題は伝統的な視覚芸術と後期近代の視覚芸術(≒現代アート)の連続性と断絶であり、それを語りの観点から探求するのが本稿である。

なお、ここでいう「語り」の原語は「narrative」だが、物語という意味では使われず、作品との出会いを仲立ちするキャプション、パンフレット、カタログ等にあるテキストのことである。

二つの断絶

議論の出発点として、伝統的な作品と後期近代の作品とのあいだにしばしば指摘される二つの断絶が取り上げられる。

「見ればわかる」かどうか

指摘される第一の断絶は、「見ればわかる(speak for oneself;自力で話す)」かどうかというものだ。

伝統的な作品は見ればわかるが、現代の作品はそうではない。

言い換えれば、現代の作品はつねに言語の媒介を要求する点で伝統的な作品とは異なると見なされる。

たとえば、トム・ウルフは抽象表現主義の作品がグリーンバーグの理論を理解することなしには理解できず、理論の図解になってしまっているとして非難している。

脱物質化

指摘される第二の断絶は、現代の作品はしばしば脱物質化されているというものだ。

ルーシー・リパードによるこの指摘は、とりわけコンセプチュアル・アートとその影響を受けた作品に当てはまるだろう。

マルセル・デュシャンのレディメイドロバート・モリスのフェルトの山のような作品はその典型例だ。

こうした作品では、伝統的な絵画や彫刻の作品を構成していた、〈そこに見て取れる質(manifest qualities)が鑑賞する際の焦点となりうるような物理的な「芸術対象art object」〉が欠けている。

 

そして、以上の断絶の指摘は伝統的な作品の存在と鑑賞に関する特定の立場を前提しているとして、デイヴィスはそれを以下のように表現する。

  1. 作品自体も、作品の事例も、われわれがギャラリー等で出会う種のものである。
  2. 作品を適切に鑑賞するには、その作品の事例の一つを直接経験する必要がある。 そのような経験ではアクセスできない作品の性質は芸術鑑賞に関係しない。
  3. 作品の事例を直接経験することで、それ自体で価値ある経験が得られる。

ここに出てくる「作品自体」と「作品の事例」の区別は補足が必要だろう。

この区別は、小説、音楽、マンガなどの複製芸術の作品の存在論的性格、一つの作品が複数の事例をもちうることを説明するために用いられる。

たとえば、昨日の夕方に流れた『ふるさと』と今日の夕方に流れた『ふるさと』は同じ曲だが、二つの演奏であり、言い換えれば、一つの作品の二つの事例である。

あるいは、一冊のマンガを誤って暖炉に突っ込んで燃やしてしまったとき、消失したと言えるのはそのマンガの一つの事例であって、作品自体ではない。

対照的に、作品自体を物理的対象と見なすかぎりで、伝統的な視覚芸術の作品の事例はその物理的対象一つだけであり、ここではまさにそのようなものと見なされているわけである。

そして、伝統的な視覚芸術作品は〈そこに見て取れる質に反応することで、美的経験を引き出すことがその鑑賞となるような物理的存在〉だが、現代の作品はそうではないとする考えが断絶の指摘の背景にあるというのがデイヴィスの考えである。

これを確認して、デイヴィスは第二の断絶を事実として受け入れ、第一の断絶を否定する。

芸術作品はつねに語りの媒介を通してのみアクセス可能であり、しかし、語りの機能は後期近代芸術における芸術対象のあり方の変化に応じて変化している、というのが彼の主張だ。

以下では、視覚芸術の理解と鑑賞において語りが果たす役割と、その役割が後期近代においてどのように変化したかについて考察していくことになる。

文脈化の語り

デイヴィスは役割に応じて語りを分類している(最終的に三つ提示される)が、最初に取り上げられるのは文脈化の語りというものだ。

抽象表現主義の画家、ジャクソン・ポロックに関するエドワード・ルーシー゠スミスの記述では、ポロックの個人様式がいかなる影響関係のなかで発展していったかが詳細に辿られている。

こうした語りを通じて、鑑賞者はポロックの作品を単なる理論の図解としてではなく、〈特定の造形的価値を達成するためにメディウムの可能性を探求すること〉という課題をもつ絵画の伝統に位置づけられる挑戦と達成の成果として理解できる。

芸術対象(ポロックで言えば、ギャラリーの壁に掛けられた色塗られたキャンバス)を特定の美術史的文脈に位置づけ、またその文脈で行われた特定の制作行為の産物として特徴づける、こうした役割を果たすのが文脈化の語りである。

もちろん、この種の語りは伝統絵画においても頻繁に見られるものだ。

たとえば、以前の記事ではエル・グレコの絵画をめぐる文脈化の語りを軽く紹介した。

そして、デイヴィスは芸術作品を単に視覚的に興味深い表面としてではなく、芸術作品として鑑賞するには文脈化の語りが不可欠だと主張する。

この主張はある種の芸術観に反すると思われるが、デイヴィスは論拠を示さず、それが分析美学の近年の研究において主流の立場だと指摘し、いくつかの文献を脚注で挙げることで議論をスキップしている。

これは残念なことではあるが、この論文におけるデイヴィスの主な関心はそこではないのだろう(機会があればこの論点を扱った文献もいずれ紹介したい)。

受容(再文脈化)の語り

文脈化の語りに次いで取り上げられるのは受容の語り(別名:再文脈化の語り)だ。

これは後期近代芸術の展示において頻繁に見られるもので、受け手の関心に訴えるよう再文脈化することで、芸術活動の産物に興味深いものを見つけることを役割とする種の語りである。

私が最近見つけた以下の記事は再文脈化の語りの好例だろう。

デイヴィスは、受容の語りがしばしば問題含みのものになる点に注目する。

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Damien Hirst, The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Living, 1991.

たとえば、パトリシア・エリスが巨大なサメの死体を用いたダミアン・ハーストの作品について大胆に象徴的な読みをするとき、彼女はこの作品の芸術対象をもっぱらサメの死体と見なし、そのタイトル(『生者の心における死の物理的不可能性』)や、サメを収める容器(リチャード・コークは、その光学的性質が周囲を歩き回る鑑賞者に錯覚を引き起こし、サメがまだ生きているという感覚を与えると指摘する)を無視している。

ここで問題になっている事柄を明確化するため、三つの用語が導入される。

  • 芸術的媒体:芸術家が生み出し、鑑賞者が鑑賞し、解釈するところのもの。芸術対象とほぼ同じ意味で、単に「媒体」とも。
  • 芸術的内容:芸術的媒体を通してアクセスされる有意味な性質、「芸術的言明」とも(例:表象的性質、表出的性質、形式的性質)。
  • 芸術的触媒:芸術的内容の帰属を可能にする、制作と受容の文脈が提供する共通理解(例:絵画実践の共通理解のおかげで、キャンバス上のしるしを筆跡の配列として、描写内容をもつものとして理解可能になる)。

(三つの用語のうち、「媒体」の原語は「vehicle」、「触媒」の原語は「medium」と非常に紛らわしいうえ、「medium」は通常の用法をかなり逸脱している。)

これらの用語を用いることで、伝統的な鑑賞観とポストモダニズムの鑑賞観との対立は以下のように整理できるとデイヴィスは指摘する。

芸術鑑賞では、芸術的内容を適切に帰属するために文脈化の語りを通して媒体を実際の歴史的文脈に位置づけることが必要なのか、それとも、そんなことは必要なく、媒体を再文脈化することで何ができるかが重要なのか。

そして、どちらの鑑賞観に肩入れするにせよ、エリスの語りはハーストの作品の媒体を捉えそこねているため問題含みなのである。

 

ここまでが論文の前半の内容となる。

後半では、現代アート作品の媒体をめぐる問題が主題的に扱われることになる。

(つづく)

ひとこと

ここで扱った論文の前半でおもしろかったのは、やはり語りの観点から鑑賞観の対立を整理しているところだ。

実際のところ、どちらか一方の鑑賞観を退ける必要はなく、どちらも有意義な鑑賞だとして受け入れてよいように思われる。

それにもかかわらず、芸術的価値を達成の観点から理解している私は伝統的な鑑賞観によりシンパシーを感じる。

芸術家の達成の成否を判断するには、彼/彼女が何を成し遂げようとしたかを把握する必要があるが、これには媒体の文脈化が不可欠だからである。

それゆえ、芸術作品の芸術的価値にアクセスするには伝統的な鑑賞観を採用すべきだと考えているが、デイヴィスもこれに近い考えなのではないだろうか。

一方、芸術的価値ではないにせよ、多様な価値を発見するための鉱脈となりうる点で、ポストモダニズムの鑑賞観も有益だと思う。

ポストモダニズムの鑑賞観はロラン・バルトミシェル・フーコーに結びつけられがちだが、この二人の「作者の死」をめぐる議論をピーター・ラマルクが分析的アプローチから検討した論文には高田敦史さんの私訳があるので、関心のある方はぜひ。