『ニューQ』(Issue03 名付けようのない戦い号)に「写真を介した情動」という記事を寄稿しました。
「写真で何かをつたえるとは何か?」という企画を構成するものの一つで、特集では、拙稿のほか写真家山本華さんの論考と写真が掲載されています。
企画の進行中は、山本さんと写真についてお話する機会が設けられるなどして、とても楽しく有意義な執筆経験となりました。
「写真を介した情動」の構成は以下になります。
- 被写体の情動
- 写真家の情動
- セルフポートレート
私たちは何かを介して情動を認識します。
その「何か」の典型例は表情ですが、写真もその一例となるでしょう。
現に、私たちは家族写真や芸術写真のうちに何者かの情動を認識するものです。
そして、その「何者か」の自然な候補は被写体と写真家であり、被写体と写真家が同一人物であるケースは一般にセルフポートレートと呼ばれます。
では、写真を介したとき、情動はどのようにして現れるのか、これが拙稿の問いです。
考察の出発点は、写真を介した情動の世界一有名であろう事例、アインシュタインの舌出し写真です。
これは表情の記録の事例です。
情動は表情を介して現れ、写真は表情を記録できるので、情動は写真を介して現れる、これは些末な事実の指摘にすぎません。
写真を介して情動が現れるより興味深い方法はないか、これを探求していく内容となります(探求を通して、アインシュタイン事例には表情の記録よりも興味深い問題があることがわかります)。
記事を書くにあたって、私は二つの方法論的制約を自分に課しました。
- 分析美学の議論のみ参照する。
- 加工写真や前衛写真の技法を扱わず、ストレート写真を範例とする。
第一の制約は、単純に私の能力と紙面の限界を考慮したものです。
写真論の蓄積には日本語文献だけでもかなりのものがありますが、私は分析美学以外の分野に疎く、かぎられた紙面で私にできる最大の貢献は(焦点をぼかすことなく)分析美学の視点を示すことだろう、と判断しました。
第二の制約は、私の過去の執筆に関係してくるものです。
私が過去に取り上げてきた写真の事例の多くは実験的な現代アート作品でした。
これは写真実践の重要な所産ですが、典型的な所産ではありません。
私たちの写真概念はストレート写真を写真の範例に据えるはずです。
そこで、私は〈記録としての写真〉という考え方と強靭に結びつくストレート写真にも当てはまる興味深い事実を見つけ出すことを試みました。
そうして、私は足元に転がっているごく素朴な事実に改めて目を向け、芸術形式として写真がもつポテンシャルを整理することができました。
美術鑑賞を趣味とする者がときおり口にする言葉として、「写真の見方がわからない」というものがあります。
写真が世界の忠実な記録、透明な窓でなければ、それは何なのか。
これを理解することは写真の見方を理解することにつながるかもしれません。
拙稿が少しでもその役に立つことができれば幸いです。
同企画の山本さんの論考では、鑑賞者から写真家に視点が切り替わり、実践を通して、写真撮影が写真家にもたらすものが議論の焦点となっています。
それは自分の情動を伝えることを超えて、写真撮影が自己変容と自己発見の手段となることを示しています。
ヘーゲルは、行為者が自分自身を知るのはその行為においてであると考えていました。
では、写真家が写真を、セルフポートレートを撮るとき、自分について何を知ることができるでしょうか。
これはあきらかに哲学的な問題です。
図版について
拙稿に戻りましょう。
私はさまざまな作品を取り上げましたが、図版は一つもありません。
ウェブ検索で作品を調べるのは面倒だし、見つけるのが難しいものもあるので、ここで確認できるようにしました。
読書のおともにどうぞ。
- アインシュタインの舌出し写真
- エドワード・マイブリッジ
- アルフレッド・スティーグリッツ
- アレクサンドル・ロトチェンコ
- オリボ・バルビエリ
- リチャード・モス
- ロバート・キャパ
- ヨハネス・ガンプ
- イルゼ・ビング
- ナン・ゴールディン
- フランチェスカ・ウッドマン