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スフレを穴だけ残して食べる方法

分析哲学批判の一つのパターンについて

分析哲学批判の一つのパターン

分析哲学批判には一つのパターンがある。

いくつか例を挙げてこれを示そう。

 

山口尚による分析哲学批判は、一言で言えば分析哲学のスポーツ性を問題にしている。

この「スポーツ性」なる性質は「「手を変え、品を変え」という迂遠なやり方で何とかアプローチしてみたい」という彼の言葉どおり、記事では定式化されていない。

気になる方はぜひ直接読んでいただきたいが、この記事でもいずれスポーツ性の内実に関する記述に触れることになる――思わぬかたちで。

「スポーツ」という表現の参照元はジョン・マーティン・フィッシャーの言葉である。

私はかつてハリー・フランクファートが述べた次の不満がよく分かる。それは、彼の事例をめぐる文献はいまや「若者のスポーツ」だ、という不満である。

分析哲学のスポーツ性に対する不満はフランクファート、フィッシャー、山口に共通のもののようだ。

さらに、山口の記事にも名前の出てくる青山拓央はその共鳴者の一人かもしれない。

 

飯田隆分析哲学 これからとこれまで』の書評において、青山はこんなことを言っている。

 本書でも紹介されているStanford Encyclopedia of Philosophy(インターネット上の有名な哲学百科事典)であるが、これはきわめて有用であるものの、自分の問いを見定める前にこれで「勉強」を始めてしまうと、自分が何を問いたかったのかを見失ってしまうことがある。本書の言う、肯定的な意味での「アマチュア」の問いが、すでに整理され格付けされた専門家の問いに取って代わられることで。

ここで示唆されるように、飯田にも青山のそれに似た問題意識があるようだ。

同書の第9章を締めくくる段落で、飯田は以下のように指摘している。

近年ますます専門化している哲学は、理論のうえに理論を作り上げ、先に先に行こうとしているようにみえます。 自らの設定したごく限られた専門のなかではそうした方法は、有効であり、また、ある意味でやむをえないのかもしれません。しかしながら、哲学というのは、それだけでなく、もっと全体的な展望を求めるものでもあると思います。

そして、専門化はしばしば産業化をともなう。

 

分析哲学を「現在における産業化された哲学の最たるもの」と呼ぶ千葉清史は、上掲の論文の第四節で以下のように警鐘を鳴らしている。

哲学が産業化され、(ちょうどデカルトがその典型例であったような)個人による徹底的な考察から、むしろアカデミックな世界における論文生産業へとその中心的な場所を移すにつれ、哲学における論争的傾向は現代においてはますます強まっている。この傾向においては、対立する立場の欠陥・問題点を示し、それに対する相対的優位を示すことで自説を正当化する、ということが基本戦略となる。もちろんこうした戦略そのものは何ら新しいものではなく、また全く正当なものである。しかしながら、こうした戦略が極端化されると、哲学のもつ「事象の解明」という側面が見失われることになる。

 

ダニエル・デネットの以下の痛烈な哲学批判も産業化が一つの論点となっている。

哲学の一部分野は自己満足に陥っており、真に興味深い問題に対処することのない、空白地帯での知的遊戯と化している。

「遊戯(プレイ)」という表現とは裏腹に、これは制度的圧力に起因するとデネットは考える。

そうこうするうちに、若い哲学者たちは出版しなければならないという大きな圧力にさらされ、巧妙なコメントや反論、復活を気軽に行うことのできるおもちゃのようなトピックを見つけてしまう。

 デネットの哲学批判は一時話題になっていたが、こんな反応もあった。

 

これらの論者による分析哲学批判は、安易に同一視してよいものではないが、おおむね重なり合って一つのパターンを形成していると言ってよい。

山口や青山の議論において顕著なように、このパターンには哲学の実存的側面、または〈自分の問い〉に対する尊重が含まれうる。

とはいえ、これは中核的な要素ではない。

事実、飯田や千葉、デネットの批判に実存に関する問題意識は見られない。

むしろ、このパターンに中心部に位置する問題意識はこんなものではないだろうか。

  • 事象の解明に対する論争の優越(縮めて〈論争ファースト〉)

(「事象の解明」と「論争」という表現は、この問題意識をもっともよく体現していると思われる千葉の論述から借りた。)

私自身は人文系クラスタにしばしば見られる〈言論に実存を賭けるべし〉という主張に抑圧的空気を感じており、実存の問題にはそれほどコミットしていない。

とはいえ、分析哲学にしばしば見られる論争ファーストの態度にはたしかに問題意識がある。

私の身の回りの分析系の人々はどれくらい共感してくれるだろうか。

実際のところ、論争ファーストをめぐっては、分析哲学業界の内部でも価値観の対立があるように見えるところがある。

 

分析系の魅力:マーシャルアーツ性

分析哲学について、スポーツの比喩とよく似た比喩がある。

上記の記事で、森功次はニック・ザングウィルの「分析哲学ってのはマーシャルアーツみたいなものだ」という言葉を引いて、このように述べる。

この喩えはけっこう秀逸だと思う。つまり、攻撃がこう来たら、こう防御する。防御できたら、こうやって反撃する。その応酬のやりとりをしっかり見ていくところに分析哲学の面白さがあるんだ、ということをザングウィルは言っていた。この種の面白さ、味わい深さは、勝ち負けだけ(つまり結論だけ)見ようとする人にとっては、あまり見えてこない部分だと思う。

興味深いことに、森は「分析美学は薄っぺらい」という批判に対して分析美学の魅力を示す文脈で「マーシャルアーツ」の比喩をもちだしている。

スポーツの比喩は否定的に、マーシャルアーツの比喩は肯定的に用いられるが、実質は変わらない。

森の記述を山口の言うスポーツ性に適用してもあながち間違いではないだろう。

そして、森はマーシャルアーツの比喩を用いて、分析哲学の議論の「価値」を専門外の人々に訴えるのだが、私が取り上げてきた分析哲学批判の論者の多くは分析哲学業界の内部に位置し、中心的でさえある。

これこそ価値観の対立を示すものではないか。

とはいえ、問題はそれほど単純ではない。

ここで論争の価値をめぐる是非と論争ファーストをめぐる是非を区別する必要がある。

千葉をはじめ、批判者たちは論争自体の価値を否定するわけではない。

論争することに楽しみを覚えないでいる哲学者を想像することは難しい。

論争が事象の解明のための素晴らしい手段となりうることを否定する哲学者を想像することもまた難しい。

論争が事象の解明、〈自分の問い〉や真に興味深い問題の探求といった事柄に優越するとき、批判者たちはそれを戒めるのである。

分析哲学のマーシャルアーツ性にその価値を見いだす森が論争ファーストを問題視する余地は十分にある。

論争に価値を見いだすことと論争ファーストに異議を唱えることは両立する。

 

分析系のもう一つの魅力

ここから少し私自身の話をしよう。

私は分析美学を専門としているが、学部二年までは分析美学という学問を知らず、まず哲学一般に関心がなかった。

美学・芸術学コースに所属していた私の関心は現代アートの批評理論であった。

文献を片っ端から読んではみたものの、読後感は二種類しかなかった。

「わかるようでわからない」か「わからない」だ。

ところが、学部二年のときに受講した西村清和先生の基礎演習で、私は『現代アートの哲学』、そして分析系の議論に出会い、芸術について理解が確実に深まっていくという喜ばしい感覚を味わった。

それから分析系に少しずつコミットしていくようになった。

ときには打ちのめされることもあった。

それでも、論証と明晰さを重視するという分析系の美徳は、現象に対する理解を確実に深めることにつながっており、これは芸術を主題とする理論研究の他の分野ではあまり重視されない事柄であるため、結局現在も私はこの分野にコミットしている。

思い出話に付き合っていただき恐縮だが、私が言いたいのは、分析系の魅力は必ずしもマーシャルアーツ性に由来しないということだ。

山口は『哲学トレーニングブック』のまえがきでこんなことを言っている。

哲学書はどれも、ありきたりな見方から離れ、新たな「これまでにない」見方を提供することを目指します。

この主張が本当に哲学書一般に適用可能かはともかく、これは私が理論書を読むうえでもっとも主要な理由である。

とはいえ、「これまでにない」見方を提供してくれる理論でも、サポートが貧弱なものでしかないならば、私はそれに魅力を感じない(どれくらいのサポートの強さを求めているのかという自己に関する難問はさておく)。

一方、論証と明晰さの重視という分析系の美徳は、「これまでにない」見方を提供するという試みに対して強力なサポートを与えることを促進する。

つまり、分析系の第二の魅力は、〈強力なサポートとともに「これまでにない」見方を提供する理論〉の生産を促進することにある。

しかし、論争ファースト、事象の解明に対する論争の優越という状況では、この第二の魅力は脅かされてしまう。

先の分析哲学批判の論者たちに私が共感する次第であり、千葉がイマヌエル・カントに帰属する一つの哲学的理念にとりわけ共感する次第である。

哲学は単に論争において自説を擁護するだけではなく、問題となっていることがらについての実質的洞察を与えるのでなければならない。

 

むすびにかえて

最後に、私が敬愛している哲学者の一人、ドミニク・ロペスの言葉を紹介しよう。

〈強力なサポートとともに「これまでにない」見方を提供する理論〉を盛んに構築してきた哲学者だ。

上掲のインタビューを締めくくるべく、ロペスは若い美学研究者に向けて以下のようにアドバイスを送っている。

現代美学の基礎は1960年代にあり、私たちが知るところの美学は1980年代に本格的に成長しはじめました。ですから、やるべきことは山ほどあります。トピックを見つけるのは難しくないと思いますが、問題はどうやって良いトピックを選ぶかということです。私からのアドバイスは〈新鮮でオリジナルなものをやろう〉ということです。あまりにも多くのことが語られているトピックは避けてください。ほとんど何も語られていないようなトピックは選びたくないでしょうが、美学には議論が過剰なくらいなされている分野があります。哲学的にやりがいのある、そして哲学的な深みを与えてくれるトピックを選んでください。美学がうまく行われたとき、最高の状態で行われたとき、それはまさに最高の哲学なのですから。

 

 

〈追記:20210825〉

児玉聡の「オックスフォード哲学者奇行」を読んでいたところ、マリー・ミジリーにも論争ファーストを戒めるような発言があることを知ったので、ここに追記しよう。

「問題なのは、多くの賢い若い男性に対して、議論に勝利することを競わせることによって生まれる、特定の哲学スタイルです。こうした若者たちは、単純な二項対立から一連のゲームを作り出し、最終的には他の誰もが何の話をしているのかわからなくなるまで洗練させてしまうのです。これは内輪のグループの外部からやってきた誰かが、全く別のトピックへと会話を移行させることにより最終的に爆発させるまで続きます。すると、そのゲームは忘れ去られるのです(……)。対照的に、戦時中のクラスでは、女性だけでなく男性(良心的兵役拒否者など)もいましたが、議論することに熱心ではなかったのです。明らかに我々はみな、お互いをやっつけることよりも、非常に不可解なこの世界を理解することに関心がありました。」