コンセプチュアル・アートという芸術運動、もしくは芸術のカテゴリーがある。
アートワードでは、「アイデアやコンセプトを作品の中心的な構成要素とする動向」だと説明されている。
その事例としてよく挙げられるのは、ジョセフ・コスースの『一つと三つの椅子』と、マルセル・デュシャンの『泉』である。
Joseph Kosuth, One and Three Chairs, 1965.
『一つと三つの椅子』は実物の椅子、その椅子の実物大の写真、辞書の「椅子」の項のコピーを併置した作品だ。
Marcel Duchamp, Fountain, 1917.
『泉』と命名され、「R. Mutt」と署名された逆さに置かれた便器は、アンデパンダン展*1への出品を拒否された逸話で知られている。
そんなコンセプチュアル・アートだが、スタンフォード哲学百科事典(SEP)では以下のように記述されている。
コンセプチュアル・アートほど多くの論争や議論を巻き起こした芸術運動はほとんどない。本質的に、コンセプチュアル・アートは観客に強烈な、あるいは極端な反応を引き起こす傾向がある。非常に斬新で適切だと見なす人もいる一方で、多くの人はそれを衝撃的で、不快で、技巧に著しく欠けていると考えており、芸術であることを単純に否定する人さえいる。
私としても、コンセプチュアル・アートは悪しざまに言われることが多い印象で、その風潮には少し抗いたい気持ちがある。
しかし、正当に称賛したり、非難したりするのに十分なほど、われわれはコンセプチュアル・アートについてよく知っているだろうか*2。
少なくとも私はあまり自信がない。
そこで、このブログではコンセプチュアル・アートに関する哲学的文献を紹介していくことにしたい。
その第一歩として、ここではコンセプチュアル・アートとは何か、どんな論点があるかに焦点を当てる。
参照するのは、ピーター・ゴールディ&エリザベト・シェレケンスによる二冊の著書、『Philosophy and Conceptual Art』(編著)と『Who's Afraid of Conceptual Art?』だ。
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コンセプチュアル・アートとは何か
ゴールディ&シェレケンスによれば、この問いには二つのアプローチがあり、それぞれ異なる領域を対象とする(Goldie & Schellekens 2007)。
- より歴史的なアプローチ
- より哲学的・概念的なアプローチ
第一のアプローチによれば、コンセプチュアル・アートはおおむね1966年から1972年のあいだに起きた芸術運動である。
この場合、コスースの『一つと三つの椅子』はその事例となるが、デュシャンの『泉』はそうではない。
第二のアプローチでは、コンセプチュアル・アートを特定の芸術運動に限定せず、特定の重要な特徴を共有する作品の集合と見なす。
この場合、『一つと三つの椅子』はもちろん、『泉』、ロバート・ラウシェンバーグの『消されたデ・クーニングのドローイング』、ダミアン・ハーストの『生者の心における死の物理的不可能性』など、幅広い時代の作品がその事例となる。
Damien Hirst, The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Living, 1991.
では、第二のアプローチからすると、コンセプチュアル・アートはどんな特徴をもつと考えられるだろうか。
ゴールディ&シェレケンスは七つの特徴を挙げている(Goldie & Schellekens 2009)。
- 皮肉めいた自己反省:自分がしていること(例:芸術)に関して皮肉めいた仕方で反省すること*3。
- 反定義:芸術作品であるための条件と見なされているものに挑戦すること。
- 反媒体:絵画や彫刻のような伝統的な媒体(medium)を拒否し、事実上あらゆる事物を(ときに組み合わせて)手段にする。
- 脱物質化:作品は脱物質化され、物質的なモノが鑑賞者に提示される場合でも、それと同一視できない*4。
- 反美的なもの:伝統的な意味での美的経験をもたらさない。
- 言語中心:言語が作品の中心的構成要素となる*5。
- 言説依存:作品を理解するために哲学や芸術理論などの予備知識が要求される。
ただし、これらの特徴はコンセプチュアル・アートの定義(必要十分条件)を構成するものではない。
ゴールディ&シェレケンスはコンセプチュアル・アートを石鹸になぞらえながら、定義の試みを意図的に避ける。
コンセプチュアル・アートを掴もうとすることは濡れた石鹸を掴もうとするようなもので、握りを強くすればするほど手から抜け落ちやすくなる、というわけだ。
とはいえ、七つの特徴はコンセプチュアル・アートについてしばしば指摘される特徴を簡潔にまとめており、そのおおまかな輪郭を知るには十分だろう。
コンセプチュアル・アートにはどんな論点があるか
ここでは『Philosophy and Conceptual Art』の収録論文から論点を取り出してみたい*6。
幸いにも、ルイーズ・ハンソンによる書評が論点をよく整理してくれているので、以下はその要約である。
ハンソンが取り出した論点は四つある。
- コンセプチュアル・アートの鑑賞の失敗の原因
- コンセプチュアル・アートが美的である(ありうる)程度
- コンセプチュアル・アートが視覚的である(ありうる)程度
- コンセプチュアル・アートと先行芸術との関係
一つずつ確認しよう。
鑑賞の失敗の原因
コンセプチュアル・アート作品はしばしばフラストレーションと混乱をもって迎えられるが、この「鑑賞の失敗(appreciative failure)」の原因とは何なのか。
ドミニク・ロペスはコンセプチュアル・アートが新しい芸術形式であると主張し、この点から原因の解明を試みる。
コンセプチュアル・アートが新しい芸術形式だとすると、他の芸術形式の価値基準では適切に評価できない(文学を建築の価値基準で評価するケースを考えよう。)。
しかし、人々はそれを絵画や彫刻のような造形芸術の一種として扱い、誤った価値基準で評価する傾向にあり、このとき、鑑賞の失敗が生じる。
デイヴィッド・デイヴィスは語り(narrative)の観点からこの問題に取り組む。
伝統的作品は「見ればわかるspeak for itself」が、コンセプチュアル・アートはある種の語りを要求するという見解について、デイヴィスはこれを拒否する。
実際のところ、すべての芸術作品は「文脈化の語りcontextualizing narrative」を必要とする。
ただし、コンセプチュアル・アートはまた「同定の語りidentifying narrative」、ギャラリーに提示されたもののうち、どれが作品を構成するかを伝える語り*7を要求し、これがその独自の特徴である*8。
コンセプチュアル・アートに芸術的価値を見いだせずにいるのは鑑賞者だけではない。
現代美学の標準的な議論もそうなのだとマシュー・キーランは指摘する。
キーランによれば、標準的な議論は最終産物(end-product)にばかり焦点を当て、芸術的創造のプロセスに十分な注意を払っていない*9。
そして、コンセプチュアル・アートの芸術的価値への無理解はこの点の表れである。
多くのコンセプチュアル・アート作品では、最終産物は目を引かないが、芸術的価値はその創造のプロセスにこそ見いだされるのだ。
美的である(ありうる)程度
美的なものに反するコンセプチュアル・アートはなおも美的価値をもちうるのか。
ディルムッド・コステロは、視覚的に快を与えるものに限定されない美的価値のあり方を、イマヌエル・カントの議論を手がかりに明らかにしようとする。
カントの見解を採用した場合、芸術作品の美的価値はアイデアの具体化を含むとされ、コンセプチュアル・アートと自動的に対立することはなくなる。
シェレケンスはコンセプチュアル・アートが美的価値をもちうる二つの方法を考察している。
第一に、アイデアを伝達する手段としての媒体の適切さは一種の美的性質となりうる*10。
第二に、美的性質の狭い領域を維持しても、数学的証明がそうであるように、アイデアはそれ自体美しさやエレガントさといった典型的な美的性質をもちうる。
視覚的である(ありうる)程度
コンセプチュアル・アートにとって視覚的特徴は本質的ではないのか。
ピーター・ラマルクはこれを否定するし、視覚的特徴の重要性を強調する。
ロペスはコンセプチュアル・アートを造形芸術と区別したが、ラマルクは文学のような非視覚的作品とも適切に区別する必要があると言う。
懸念となるのは、コンセプチュアル・アートが文学ほど複雑かつ繊細なアイデアを提示できないのではないか、そうだとすると、より低い芸術的価値しかもたないのではないか、という点だ。
ラマルクは、コンセプチュアル・アートが「不可避の視覚的要素」をもつとし、それが独自の芸術的価値を構成すると主張する。
アイデアを把握するだけではコンセプチュアル・アートの適切な鑑賞とは言えず、そのアイデアの把握によって色づけされた作品の知覚経験がなければならない。
概念的なものと知覚的なものの相互作用が、コンセプチュアル・アートを完全に非視覚的な芸術と完全に視覚的な芸術から区別するのだ。
先行芸術との関係
コンセプチュアル・アートを十分に理解するには、先行芸術との関係を理解する必要がある。
デレク・マトラバーズは、コンセプチュアル・アートの芸術史的正当化の可能性を検討しており、それが「モダニズムの内的疲弊(internal exhaustion)に続く正しい一歩」だという見解に焦点を当てる。
ロバート・ホプキンスは、コンセプチュアル・アートがある意味で先行芸術に寄生していると指摘する。
〈芸術作品は価値ある視覚経験をもたらすものだ〉という共通の慣習において提示されることで、それは鑑賞者の期待を裏切り、なぜそのようなことをするのかと理由を探るよういざなうのだ*11。
ひとこと
キーランの議論が示唆するように、近年まで、分析美学ではコンセプチュアル・アートはあまり注目されてこなかったらしい。
ハンソンが書評の冒頭で、知的厳格性を熱望するコンセプチュアル・アートが分析哲学を特徴づける知的厳格性にさらされることがめったになかったのは皮肉だと言っていたのが印象的だった。
今回はコンセプチュアル・アートに関するごく簡略的な紹介だったが、今後は『Philosophy and Conceptual Art』の収録論文をいくつか取り上げようと思う。
*1:無審査で出品できる展覧会のこと。
*2:個別事例レベルではよく知られているものもあるかもしれない。デュシャンとか。
*3:ピエロ・マンゾーニが自身の糞を缶詰にした作品『芸術家の糞』はこの点を鮮やかに示す例だろう。これは〈内なるものの表出としての芸術〉という今日でもしばしば支持されるロマン主義的芸術観をからかっている。
*4:ロバート・バリーは大気中に不活性ガスを放出するという「不活性ガス」シリーズを作成している。ギャラリーではその行為の記録として写真や文書が提示されるが、これらを作品と同一視することは難しいだろう。
*5:ここですぐに思い出されるのは、ネオン管で何らかの言葉をかたどった種の作品だ。
*6:このアプローチのために言及できなかった論点として、〈芸術一般に適用される理論への挑戦〉がある。たとえば、コンセプチュアル・アートは直面原理(Acquaintance Principle)への反例候補と見なされる。直面原理に関しては、森功次さんの講演資料を参照。
*7:事例で考えると、『一つと三つの椅子』は三つの独立した作品ではなく一つの作品であり、『生者の心における死の物理的不可能性』はサメだけでなくケースも作品の構成要素だが、こうした事柄を伝える語りのこと。
*8:鑑賞の失敗の原因は、伝統的作品にはない種の語りへの依存にあるということか。
*9:鑑賞者が一般にもつ芸術的価値の民間理論もこの点を共有するならば、キーランの議論は鑑賞の失敗を直接説明するものでもあるだろう。そして、その見込みは高いと思われる。
*10:いずれにせよ、芸術的価値の源泉であることはほぼ間違いない、とも。
*11:ポール・グライスの会話の含みの理論が援用されているようだ。