Robinson, J. 2017. “The Missing Person Found. Part I: Expressing Emotions in Pictures.” The British Journal of Aesthetics 57(3): 249–267.
画像は目に見えるものだけでなく、目に見えないものも表すことができる。その注目すべき一例は情動(emotion)であり、情動やその他の心理状態を表すことはとりわけ「表出expression」*1と呼ばれる。
今回はこの画像表出を主題とするジェニファー・ロビンソンの論文を取り上げる。
ロビンソンはドミニク・ロペスが主張する画像表出の輪郭説を批判し、画像表出のロマン主義的説明を提案する。
画像表出の三つのモード
まずはロビンソンのライバルであるロペスの議論を見ていこう。
ロペスは画像表出を三つのモードに分類している。
- 人物像による表出(figure expression):描かれた人物に完全に帰属可能な表出。
Honoré Daumier, Fatherly Discipline, 1851-52.
ドーミエの『父のしつけ』はフラストレーションを表出しているが、その表出は描かれた父に完全に帰属可能であり、これは人物像による表出の一例だろう。
- 光景による表出(scene expression):少なくとも部分的には描かれた光景に帰属可能であり、いかなる描かれた人物にも完全には帰属可能ではない表出。
Théodore Géricault, The Raft of the Medusa, 1819.
ジェリコーの『メデューズ号の筏』に描かれた海は悪意を、遠方の船*2は無関心を表出しているが、これらは光景による表出の一例だろう。
- デザインによる表出(design expression):画像のデザインに完全に帰属可能であり、いかなる描かれた人物や光景にも帰属可能ではない表出。
Austin Lee, Mr. Austin, 2017.
オースティン・リーの自画像の背景の色彩が(描かれた人物とは独立に)能天気を表出しているとき、それはデザインによる表出の一例だろう*3。
デザインによる表出は、人物像や光景による表出を強化したり、それらと衝突したりすることがある。
たとえば、『父のしつけ』では、父の顔や身体を描くために用いられているコイル状の線は緊張や不安を表出し、父が表出するフラストレーションを強化している。
行方不明者問題
このように表出を区別したところで、一つの問題が浮かび上がる。
一般に、情動をはじめとする心理状態の表出は、ある特定の人物(ときに虚構的人物)の心理状態を明示(manifest)することである。
たとえば、バラク・オバマの涙は、オバマの悲しみを明示する。また、朝青龍のガッツポーズは、朝青龍の勝利の喜びを明示にする。
(画像表出に対して、こうした実生活での表出は「自然な表出natural expression」と呼ばれる。)
しかし、画像表出のうち、光景やデザインによる表出では、それが表出する情動が帰属可能なものはない。光景やデザインは心をもたないのだ。
ここで生じる問題を、ロペスは「行方不明者問題the missing person problem」と呼ぶ。
行方不明者問題を解決に導く戦略は二つある。
- 表出された情動を、画像に描かれていない何らかの人物に帰属する。
- 〈表出された情動が帰属可能な人物〉は情動表出にとって不必要だと認める。
ロペスは一番目の戦略がうまくいかないとし、二番目の戦略をとる。
画像表出の輪郭説
ロペスは、スティーヴン・デイヴィスらが擁護する音楽表出の輪郭説(contour theory)を参照する。
音楽表出の輪郭説によれば、音楽による憂鬱の表出は、人の顔や声、動作による憂鬱の表出との類似物である。
デイヴィスはバセットハウンドを例に挙げる。
バセットハウンドの顔は憂鬱を表出する人の顔の「輪郭contour」をもつが、その犬が実際にどう感じているかを一切反映していない。
同様に、音楽による憂鬱の表出は憂鬱に聴こえるだけであり、何者かの情動状態を反映しているわけではない。
この説明を画像表出に適用しよう。
- 画像表出の輪郭説:画像のデザインや、描かれた人物像や光景が情動Eを表出するのは、それが、その状況において、Eを示す機能をもつとき、かつそのときにかぎる*4。
音楽表出の輪郭説と比較すると、この説明は自然な表出との類似性に訴えていない点が特徴だ。なぜなのか?
興味深いことに、画像表出のすべてが自然な表出と類似しているわけではない。
そのもっとも顕著な例の一つは愛を表出する「目がハート(😍)」だろう。
いずれにせよ、輪郭説は〈表出された情動が帰属可能な人物〉を要求せず、その点でデフレ的だといえる。
ロビンソンは、ロペスによる画像表出の三つのモードの分析そのものに異を唱えるわけではないが、それは画像表出の説明として不十分だと考える。画像表出にはそれら以上に重要なものがあるのだ。
以下ではロビンソンの議論を見ていこう。
画像表出のロマン主義的概念
Oskar Kokoschka, Self-Portrait, One Hand Touching the Face, 1918–19.
そもそも、「表出としての芸術」という考え方は、ロマン主義者が開発し、コリングウッドが明確化したものである。
そこでは、芸術表出とは作者が自身の情動を明示することだと考えられている。
この場合、芸術はロビンソンが「真の表出」と呼ぶものでありうる。
- 真の表出(genuine expression):情動Eの表出が真の表出であるのは、それがEによって引き起こされたときにかぎる。それゆえ、真の表出は〈表出された情動が帰属可能な人物〉を要求する。
ロビンソンは画像表出にこのロマン主義的表出概念を採用する。
したがって、行方不明者は画像の作者だということになる。
しかし、画像表出のロマン主義的説明にはいくつかの問題点があるように思われるかもしれない。それらを検討しながら、この説明に対する理解を深めていこう。
作者には帰属できない情動
画像が表出する情動には、作者に帰属することが説得的ではないものが無数にある。
たとえば、『メデューズ号の筏』に描かれた海が表出する悪意をジェリコーに帰属することは奇妙である。
とはいえ、この点はロビンソンにとって問題ではない。
画像は作者の情動的態度を表出するが、それは人物像や光景、デザインといった画像の個々の構成要素ではなく、画像全体を通してである。
『メデューズ号の筏』は、メデューズ号の難破やその犠牲者の運命に対する特定の情動的態度をもつ作者に対して、世界が現れるその仕方を描いている。
ジェリコーは犠牲者の絶望や苦悩を描いているだけではなく、画像全体を通して、犠牲者の運命に対する自身の恐怖や憤慨を表出している。
また、これは海や遠方の船といった個々の構成要素への情動の帰属を正当化する唯一のものだとロビンソンは主張する。
つまり、ジェリコーが海を悪意あるものとして、船を無関心なものとして描くのは、彼が恐怖と憤慨の情動的態度をその主題に向けているからである。
一般化すれば、画像が表出する作者の情動的態度は個々の構成要素による表出を支配するものであり、それゆえ、画像にとって重要な統一原理だといえる。
矛盾する情動
ロペスは、画像の作成にともなう心理状態が、画像が表出する情動と矛盾しうることを指摘している。
恐怖を表出する画像を考えよう。もし作者がその作成過程において恐怖を感じていたとすれば、とても画像を作成することができないではないか。
ロビンソンにとって、この種の反論は大げさである。
一般に、芸術作品が表出する作者の情動は、一時的(transient)なものではなく、長期的(longer-term)なものである。
一時的な戦慄やパニックは画像の作成にとって有害だが、恐怖を表出する画像は、作者がそうした情動を作成過程において感じることを要求しないのだ。
実際の作者と内包された作者
作品が表出する情動を実際の作者ではなく、作品自体から再構成される内包された作者(implied author)に帰属すべきだと主張されることがある*5。
ある作品では、一見、日常生活における実際の作者と、内包された作者に違いがあるかもしれない。
実際の作者と内包された作者を区別することで、われわれはこうしたケースを無事処理することができる。
しかし、内包された作者が心をもたず、それゆえ真の表出が不可能だとすれば、ロビンソンにとっては問題ではないか。
これに対して、ロビンソンは内包された作者と実際の作者の関係に注目する。
内包された作者は選択された情動を表出するよう設計された一種の人工物だが、これは実際の作者の(日常生活での人格とは区別できる)「芸術的人格artistic personality」に由来する*6。
作品が表出する情動を内包された作者に帰属するとき、それは実際の作者の芸術的人格に帰属することでもある。それゆえ、真の表出の障害ではない。
画像表出の解釈学的循環
最後に、ロビンソンは画像表出の経験に触れる。
画像が表出する作者の情動的態度はたしかに画像の統一原理だが、われわれはまずそれを経験し、それに基づいて、個々の構成要素が表出する情動を経験するのだというわけでは必ずしもない。
むしろ、われわれは個々の構成要素がいかに描かれているかを経験してから、それに基づいて、画像全体が表出する情動的態度を経験するようになることがほとんどだろう。
ひとたびその情動的態度を理解すると、個々の構成要素が表出する情動について、新たな理解が得られるようになる。
こうして、われわれは解釈学的循環において、つまり、部分と全体を行き来しながら、画像表出を経験するのだ。
ひとこと
ロビンソンの主眼は、ロマン主義的画像表出の存在とその重要性を強調することにあるのだろう。
ロペスがコメントしているように、これを画像表出の第四のモードと見なしてもよい。
これらの道具立てを用いることで、さまざまな画像作品を情動表出の点から、よりきめ細かく楽しむことができそうだ。
今年はムンク展が催されるということで、たいへん素晴らしい予習となった。
*1:美術史における表現主義のように、一般的には「表現」と訳されることが多い。しかし、「表現」という語は(「expression」という語もそうなのだが)多義的であるため、代わりに「表出」という語を用いる。
*2:水平線上に非常に小さく描かれているため、ここに示した画像ではほとんど見えない。
*3:ロペス自身はジャクソン・ポロックのドリップ・ペインティングを例に挙げているが、ここでは表象的画像の事例としてリーの作品を取り上げた。
*4:ロペスによる画像表出の輪郭説の定式化には問題点があるとロビンソンは指摘しており、ここで紹介しているのはロビンソンによる修正バージョン。
*5:この「内包された作者」という概念は物語論で発明されたもの。
*6:ロビンソンによれば、ロマン主義や表現主義の芸術家は〈芸術家の「本当の自己true self」が表出されるのは日常生活ではなく、作品においてである〉と信じている可能性が高い。