#EBF6F7

スフレを穴だけ残して食べる方法

ドミニク・ロペス「絵画」その2

Lopes, D. 2013. “Painting.” In The Routledge Companion to Aesthetics, eds. B. Gaut and D. Lopes, 596-605. 3rd Edition. Routledge.

 

前回:ドミニク・ロペス「絵画」その1 - #EBF6F7

 

The Routledge Companion to Aesthetics (Routledge Philosophy Companions)

The Routledge Companion to Aesthetics (Routledge Philosophy Companions)

 

 

はじめに

模倣説と形式主義を検討して見えてきたのは、絵画の経験には二つのアスペクトがあるということだ。われわれは絵画のデザインを経験することもあれば、絵画が表象するものを経験することもある。

模倣説と形式主義は一方を重視しつつ、他方を無視する立場であったが、二つのアスペクトの関係に注目することで、絵画の価値に至る第三の道が開ける。

ただし、その関係性は二つ考えられる。すなわち、それらは別々に経験されるのか、それとも同時に経験されるのか。ここで道は二又に分かれる。

平行説

平行説(parallelism)によれば、絵画を眺めるとき、われわれはデザインの経験や対象現前経験をもつことができるが、両方の経験を同時にもつことはできない。

これは弱い形式主義を擁護するために用いられた見解でもあるが、平行説の主な支持者であるE. H. ゴンブリッチはフライとは違い、絵画の価値は各アスペクトに独立にあるのではなく、むしろアスペクトの切り替えによって得られると考えた。

ゴンブリッチはこの価値が具体的にどのようなものであるかを明らかにしていないが、二つの可能性が容易に浮かぶ。

  1. 絵画の価値は各アスペクトの価値の総和であるかもしれない。
  2. アスペクトは互いの価値を強化するかもしれない。こちらはより興味深い。

対象現前経験の価値はときに、それがデザインされた表面によってどのように引き起こされているかを見ることで強化される。同様に、デザインの価値はときに、それが対象現前経験をどのように支えているかを見ることで強化される。

具体例を考えよう。あなたが壁掛けの棚にぼたもちを見つけ、食べようと近づくや否や、それがぼたもちを描いた絵画であることに気づく。あなたはこの絵画のトリックがどのように達成されているのかを確認しようと、角度や距離を変えて眺めることを楽しむ。ゴンブリッチ的説明の第二の可能性は、こうした経験の価値を説明してくれる。

 

とはいえ、平行説には重大な難点が指摘されている。

デザインの経験と対象現前経験を同時にもつことができることを否定する平行説は、その帰結として、対象現前経験をイリュージョンと見なすことになる。というのも、デザインの経験こそが、われわれに〈いま見ているのはある光景の絵画であって、その光景自体ではない〉という事実を知らせてくれるからだ。

ところが、この帰結はわれわれの経験に反する。

あきらかに、だまし絵を除いて、通常の絵画が引き出す対象現前経験はイリュージョンではないのである。

二重説

平行説とは対照的に、二重説(twofoldness account)は二つのアスペクトがつねに同時に経験されると考える。

たとえば、『モナ・リザ』に女性の姿を見るとき、われわれは同時にそのデザインをも見ている。まさにそのおかげで、対象現前経験はイリュージョンとは区別される。

また、二つのアスペクトが同時に経験されることで、「屈折」という現象が生じることもある。

  • 屈折(inflection):デザインの特徴が描かれた光景に浸透することで、その光景がもはや直接見られたときではありえないような見え方をする現象のこと。

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Vincent van Gogh, Self-Portrait with Grey Felt Hat, 1887.

ファン・ゴッホの荒い筆致による自画像の経験は屈折の好例である。

これとは逆に、デザインの経験が対象現前経験の影響を受けることもある。たとえば、キュビスム絵画の経験では、描かれた光景を見ることで、デザインは当の光景を描くものとして組織化され、新たな現れを獲得する。

こうしたケースでは、二重性は絵画に特有の価値の源泉である。

われわれはある絵画の形式的性質や、その絵画が引き出す対象現前経験の性質だけでなく、〈二つの性質が互いを豊かにし、複雑にする経験〉において両者がどのように相互作用しているかをも評価するかもしれない。

さらに、二重説はある種の抽象絵画にも対処できる。デザイン空間と表象された空間の相互作用を達成しようとする抽象絵画の価値を自然な仕方で説明できるのだ。

 

しかし、絵画の経験は必然的に二重なのだろうか?

ロペスはいくつかの反例を指摘している。

だまし絵

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Cornelis Norbertus Gijsbrechts, Trompe l'oeil. The Reverse of a Framed Painting, 1670.

だまし絵の成功は、イリュージョンを引き起こすことができるかにかかっている。すなわち、われわれがそのデザインに気づくことなく、それが表象するものを経験することに依存しているのだ。したがって、成功しただまし絵の経験は二重ではない。

ミニマリズム絵画

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Robert Ryman, Untitled, 1961.

まったく表象的アスペクトをもたない絵画もある。三次元空間すら表象しないミニマリズム絵画は「純粋なデザイン」と呼ぶことができ、二重の経験をもたらさない。

ジャスパー・ジョーンズ的絵画

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Jasper Johns, Figure 4, 1967.

ジャスパー・ジョーンズの絵画には数字が描かれているが、それは表象された数字ではなく、まさに数字そのものである。したがって、われわれはこうした絵画のデザインや数字に注意を向けることができるが、そこに表象されているものに注意を向けることはできない。そんなものはないからだ。

複数主義

絵画に特有の価値は、絵画ならではの性格によって実現される。

しかし、絵画は単一の、統一的性格をもたないというのがロペスの結論だ。

したがって、すでに確認したように、あらゆる絵画作品に適用される理論はない。

その代わり、絵画には、それぞれ異なる絵画の基礎的要素に重点を置く少なくとも四つのジャンルがある。すなわち、模倣的絵画、形式主義絵画、平行アスペクト絵画、二重絵画の四つである*1

このことが正しければ、われわれがある絵画の価値を適切に判断できるのは、その絵画を適切なジャンルに属するものとして解釈するときにかぎる*2

ヒップホップをジャズとして評価したり、リアリティ番組を悲劇として評価したりすることが誤りであるように、模倣説の基準によってキュビスムの作品を評価したり、形式主義の基準によってだまし絵を評価したりすることは誤りなのである。

感想

模倣説はシンプルながら、説明できる事例がたくさんありそうだ。

たとえば、橋本環奈の「奇跡の一枚」の価値は模倣説の枠組みにおいてほぼ完璧に説明できるんじゃないだろうか。

 

ロペスはジャスパー・ジョーンズ的絵画が二重説の反例になると考えているが、数字を描いた絵画の経験は通常の抽象絵画とは異なるわけで、これをどのように説明するかは一つの課題だろう。

 

なお、形式主義が用いる造形的形式と図解的内容の区別はデザインと内容の区別と一致しないが、ロペスは基本的に後者の区別を用いて議論を進めるため、形式主義に関して記述が不正確になっているところがあった。

形式主義は、絵画の経験の二つのアスペクトに沿って明快に理解できる他の立場と比較するとやや異色であるといえる。

 

*1:ロペスは記していないが、これらのジャンルが相互に排他的なのかが気になる。

*2:これはケンダル・ウォルトンの「芸術のカテゴリー」の議論を踏まえている。

K. Walton「芸術のカテゴリー」|morinorihide|note