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スフレを穴だけ残して食べる方法

ジェフ・クーンズの「ゲイジング・ボール」シリーズについて

ジェフ・クーンズの近作が不評らしい。しかし、クーンズのキャリアをキッチュという点から考えるとき、その近作のひとつ「ゲイジング・ボール」シリーズはきわめて意義深いものに思われる。そこで、このシリーズについて少しばかり考察してみたい。

 

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2013年を中心に、現在も制作が続けられている「ゲイジング・ボール」シリーズは、(クーンズによる過去の立体作品と同様)たいへんわかりやすい見かけをした作品群である。すなわち、青いガラス玉が乗せられたギリシア彫刻だ。雪だるまのように、モチーフにはいくつかの例外があるものの、今回それらについては触れない(一貫性を崩すようなそうした例外は、観者を立ち止まらせ、あるいは深読みをさせる仕掛けとして機能するかもしれない)。

 

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クーンズの作品はキッチュという語を用いて語られることが多かった。実際、クーンズの扱うモチーフの多くは、キッチュである。キッチュとは何か、という悩ましい問題はここでは扱わないが、要するに陳腐な、凡庸なものを指す言葉である。

 

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「ゲイジング・ボール」シリーズにおいても、クーンズはキッチュを問題にしている。しかも、それもどうやら主題的に取り上げているらしい。シリーズ名にある「ゲイジング・ボール」とは、アメリカの郊外でよく見られる、庭に設置される一種の置物である。言うまでもなく、これもキッチュの一種だ。クーンズのゲイジング・ボールはぴかぴかに磨き上げられており、周囲のすべてを映し出すが、これは《ラビット》や《バルーン・ドッグ》でおなじみの美的効果だから、特筆するほどのものではない。

 

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一方、このシリーズの実質的な主役ともいえるギリシア彫刻はどうか。尊ばれるべき古典古代の傑作は、キッチュとは対極の位置にあるように思われる。クーンズはギリシア彫刻にファイン・アートを代表させて、キッチュとの両極をただ示そうとしたのだろうか。おそらくそうではない。手がかりはその素材にある。これらのギリシア彫刻は石膏製なのだ。クーンズが直接参照しているのはオリジナルのギリシア彫刻ではなく、それらを模した石膏像なのかもしれない。そもそも、われわれがギリシア彫刻として(実物にせよ、画像にせよ)よく目にするもののほとんどはギリシア時代のそれではなく、ローマ時代になって作られたいわゆるローマン・コピーである。オリジナルのギリシア彫刻がファイン・アートであることは間違いない。しかし、それとほとんど変わらない見かけをした石膏像やローマン・コピーはどうか。石膏像はもっぱらデッサンの練習をするための実用的な道具でしかないし、大量生産されたそれは美的鑑賞に耐えうるものでもない。またローマン・コピーは失われたギリシア彫刻の偉大さを伝えてくれる点では貴重なものだが、それ自体としては模倣の域にとどまった、芸術的価値の薄いものである。いずれにせよ、それらはキッチュなのだ。クーンズはギリシア彫刻を取り上げることで、ファイン・アートがいともたやすくキッチュなものに転じてしまうその危うさに注目したのではないか。

 

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「ゲイジング・ボール」シリーズでは、しばしばゲイジング・ボールが転げ落ちてしまうのではないかと不安にさせるようなしかたでギリシア彫刻に乗せられている。ゲイジング・ボールは先述のとおり、その光の反射がクーンズの過去の代表作を思い起こさせるが、それらは共通して、知覚的にはほとんど元のキッチュであるままにして、ファイン・アートとして認められたものである。一方、ギリシア彫刻は申し分のないファイン・アートだが、知覚的にはほとんどオリジナルと変わらない石膏像やローマン・コピーはキッチュにすぎないのである。ゲイジング・ボールとギリシア彫刻の不安定なバランスが暗示するように、クーンズはこのシリーズを通して、ファイン・アートとキッチュとの穏やかならぬ関係を浮かび上がらせている。

 

最後に思い返してみよう。近年の研究によれば、オリジナルのギリシア彫刻は本来着色されていたという。大理石の典雅さに古典古代の理想を見ていたわれわれには、その極彩色が悪趣味(キッチュ)にさえ映るではないか!